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【再掲】2024年夏に見た原爆とホロコーストに関する映画&ドキュメンタリー感想文

  • somsak7777
  • 1月15日
  • 読了時間: 27分


◇映画「黒い雨」(1989年)とNHKの秀逸なドキュメンタリー 

※タネアカシあり



井伏鱒二の「黒い雨」を今村昌平が映画化した。広島の原爆投下後、黒い雨に打たれたため「原爆病」の噂が立てられ、なかなか縁談がまとまらない妙齢の女性、矢須子を田中好子が、その叔父を北村和夫が、叔母を市原悦子が演じている。


他に着る服がないので、田中好子と市原悦子がチョコンと池に体を沈めて、洗濯した着物が乾くのをまっている。原作にもあるその光景をある文芸評論家が「一種の聖画だ」と評していましたが、私も映画を見てそう思いました。しかし、2人とも、もうこの世にいないのだなあ。


梳いた髪が抜け落ちていくのを見て、原爆病であることを確信した田中好子が不思議な笑みを浮かべるところ。「不思議な」と書きましたが、他にどういう表情を浮かべるのかを想像した時、やはりこの表情しかないとも思えるのですね。ついに来るものが来た、と身構えていた緊張が一瞬溶ける、その表情ですか。田中好子はこの笑みによって映画史に残る、と私は思います。


原爆については、以前、NHKで秀逸なドキュメンタリーを見ました。原子爆弾開発は、ルーズペルトの科学顧問の秘密プロジェクトとして進められており、議会の了承を得ずに莫大な予算を使ってしまった以上、原爆の投下は既定路線だったのだと。ふ・ざ・け・る・な、と涙が出た。この科学顧問は戦後、軍事企業レイセオンを創設したとか言ってましたが、名前は忘れた。


※“悪魔の兵器”はこうして誕生した〜原爆 科学者たちの心の闇〜


※科学顧問の名前はヴェネヴァー・ブッシュ


今年も原爆の日が近づいて、この映画とドキュメンタリーを思い出したので投稿。NHKは、こういう良いドキュメンタリーは、アーカイブで公開するべきだと思いますね。探したが見当たらなかった。もし、公開していたら失礼。


ではでは


<了>




◇昨夏のバービー騒動と原民樹「夏の花」の英訳


昨夏、こういう投稿をした。


オッペンハイマーとバービーを組み合わせたコラージュ映像に原民樹の「夏の花」の一節をコラージュしてみた。



昨年の8月に投稿したもの。昨夏、映画「バービー」と「オッペンハイマー」が同時公開されたことから、一部のバカな欧米のファンが、原爆と「バービー」をコラージュして、ワーナーブラザーズのサイトに投稿した。これに対して、ワーナーの担当が、暴走するファンをたしなめもせず、同調するようなコメントを返したことで、日本側から(珍しく)抗議の声が巻き起こったのである。


・・・以下、その時書いた文章


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アメリカ人に原爆について教えてあげる時の参考として、コラージュ画像を作ってみた。


最初は、炎の中で崩壊するツインタワーに、ドラえもんとのび太をコラージュしてやろうかと思った。今回のワーナーの行為は、その手の無知、無神経な投稿に、東映の広報担当が「今年も熱い冒険の夏ですね」とコメントを返したようなもんだから。そうやって「アメリカ人よ、Think!」と挑発することもできるが、やめておいた。アメリカ人に考えさせるには、こちらの方が良いだろうと思う。



「夏の花」は一応、英訳もされていて以下のサイトで読める。コラージュ画像の引用はこの英訳からとった。外国のバービーファンにも勧めてみたらよいと思う。





コラージュした文章は、日本語原文では以下の赤文字の箇所に該当する。感情的になり過ぎないように、なるべく残酷でないところを引用したのである。


その時、警戒警報が出た。どこかにまだ壊れなかったサイレンがあるとみえて、かすかにその響がする。街の方はまだ熾(さかん)に燃えているらしく、茫(ぼう)とした明りが川下の方に見える。


「ああ、早く朝にならないのかなあ」と女学生は嘆く。「お母さん、お父さん」とかすかに静かな声で合唱している。


「火はこちらへ燃えて来そうですか」と傷ついた少女がまた私に訊(たずね)る。


 河原の方では、誰か余程元気な若者らしいものの、断末魔のうめき声がする。その声は八方に木霊(こだま)し走り廻っている。「水を、水を、水を下さい、……ああ、……お母さん、……姉さん、……光ちゃん」と声は全身全霊を引裂くように迸(ほとばし)り、「ウウ、ウウ」と苦痛に追いまくられる喘(あえぎ)が弱々しくそれに絡(から)んでいる。


(引用終わり)


書き起こし引用は「青空文庫」より



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ムカついたので以下のような事も書いて映画サイトに投稿した。すると、ある映画ファンから「もっと大人になれ」と言われて驚いた。自分は今年還暦なのである(笑)まあ、幼稚なのはその通りだが。だから、腹をたててこういうコラージュを作っている。


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「バービー騒動について」


なるほどこれかあ。国連の安全保障理事会常任理事国が、堂々と核による威嚇を振りかざす時代だからなあ。原爆タブーなど、日本にしか存在しないのではないか。ワーナーブラザーズの本社が、日本支社の抗議を受けて初めて重い腰をあげ、謝罪に踏み切った事が象徴的だ。今、ググッってみると、日本側で抗議の声が上がるまで、アメリカのメディアは、オッペンハイマーとバービーの同時公開を、意外性のあるキャッチーな組み合わせとして、嬉々として取り上げている。意図したものかどうかは別として、ワーナーブラザーズ側は、この相乗的宣伝効果に内心ほくそ笑んでいたのだろう。


今回、SNSで抗議が巻き起こったのは、日本人が色んな嘘に気づき始めた兆しではないか。自分は別に「映画がこんなにも好きな私」を愛する映画至上主義者ではないので、バービーが日本で大コケしても、なんの痛痒も感じない。だから時々、こういう事をやっておく必要があるのではないかと思う。


騒動に関しては例えば以下を参照下さい。https://www.bbc.com/japanese/66368980


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追記 「バービー」は日本でもそれなりにヒットしたようだ。炎上騒動のせいで、全世界的なヒットの割には、振るわなかったという見方もあるが、騒動は映画「バービー」にとってはとばっちりに過ぎないから、もしそうなら、気の毒なことになった。しかし、配給会社を謝罪に追い込んだことには意味があると思う。「オッペンハイマー」は日本で公開されなかったようだが、これは意味がわからない。日本人は原爆開発のリーダーの心理を客観的に評価できるくらいには「大人」ではないか。


「「バービー」世界的ヒットも日本不振の背景 炎上騒動が宣伝へ影響」(Yahoo News)



追記2

「オッペンハイマー」も今年になって公開されて、結構、客も入ったようだ。映画ではなく、バカなファンと、配給元の姿勢が問題なのであって、映画が公開されたことに異論はない。ただ、配給元に多少なりともペナルティを与えるべきだと思ったのだ。



オッペンハイマーは、2024年上半期の映画としては、今年屈指の入りだったとある。バービーの入りがイマイチで、むしろ「オッペンハイマー」がヒットしたのは、単に、日本人の関心が、そちらの方面に高かったからだろう。唯一の被爆国なのだから、フェミニズムより、原爆開発の歴史の方に興味があるのは当たり前の話。


追記3

One OK Rock のボーカル、タカが、この問題がまだ燃えている最中、「日本人としてマジで気分悪い」とTwitterに投稿している。「マジで舐めんなよ」とも。さすがタカ様!元々、この人のファンだが、一層、10割増くらいでファンになった。



ではでは




◇今更ながらヒトラーのドキュメンタリーを見る



映画配信サイトで、ヒトラーのドキュメンタリーを見る。六回シリーズ。ナチス全盛時のドイツでCBSの特派員を勤めたウィリアム・シャイラーを「語り部」として、ニュールンベルグ裁判の映像と音声に、歴史専門家や関係者のインタビューを加えて、ヒトラーの権力奪取から没落までの過程を描いている。Netflix制作。再現映像を随所に使った、いわゆるドキュドラマである。日本語字幕あり。


ニュールンベルグ裁判のフィルム映像は合計で35時間くらいだが、音声テープは1200時間くらい残っていて、ほとんどが最近になって公開されたものだという。このドキュメンタリーでは、新しく公開された被告人等の音声をふんだんに使用し、その本物の音声に法廷内の再現映像を被せて、よりリアルに法廷シーンを再現している。これだけの長尺だと、写真ではどうしても映像が単調になるのである。また、「語り部」としてのシャイラーはラジオの放送記者だから、要所でその音声を使い、著作から引用した部分は、シャイラーの肉声から復元した音声に語らせているのだ。その他の歴史叙述も、専門家、証言者のインタビューで構成していて、プロのナレーターによるナレーションは存在しない。この辺りが、このドキュメンタリーの手法的な新しさで、エンターテーメント性と歴史記述の堅実性の両立を狙ったのだろうと思う。


全6篇を2日かけて見たが、いろいろ知らないこともあって面白かった。ヨーロッパがロシアのウクライナ侵略にあれほどナーバスになっている理由が改めて腑に落ちた。自国民族が居留する地域にまず侵攻し併合を認めさせた後、それ以外の領土に攻めこむという侵略の手法がナチスとそっくりなのだ。現代ロシアの総統閣下は、ヒトラーのような電撃作戦は取らなかったが、もし、ウクライナ側が抵抗していなければ、ロシアによるクリミアの事実上の併合は、現代版の「ミュンヘンモーメント」となったかもしれない。時間的に前後するが、キエフ侵攻を決めた時、老いたマッチョ独裁者の脳裏には、オーストリア国民に歓呼を持って迎えられたウィーンでのヒトラーがあったかもしれない。


この後、もういくつかナチスもののドキュメンタリーを見て、「シンドラーのリスト」を見るつもり。なんと、まだ見ていないのだ!それからチャップリンの「独裁者」を再見する。こちらは配信サイトにはないが、探せばどこかにあるだろう。チャップリンがこの映画を作ったのは、なんと、1940年、第二次大戦が始まってはいたが、アメリカ国内でのヒトラーへの警戒心はまだそれほど高まっていなかった。今更ながら、チャップリンの先見性に驚かされる。


ヒトラーとホロコーストを復習した後は、中東関係のドキュメンタリーを幾つか見てバランスをとるつもり。これが、私の今年の夏の過ごし方である。いやー、我ながら暇ですなあ。



ではでは


<了>




◇シンドラーのリスト(1993)映画感想文


初めて見た。名作。戦犯国家ドイツに免罪符を与える映画・・・とかなんとかいう人がいるかもしれないが、ドイツ人だって、ああいう作りにしないと、ホロコーストの映画なんか見る気がしないだろう。良心的で魅力的なヒーローに感情移入することによって、自国のあれほどの恥ずべき歴史を、最後まで見通すことができるし、若い世代にロールモデルを提示することもできるのだ。ただただ、悲惨かつ卑劣、醜悪な歴史の現実を描く映画は、拒否反応を呼び起こして、おそらくネオナチを生み出すことの方に寄与するだろうし、劇映画ではなくドキュメンタリーでやることだと思う。


エピローグに、シンドラーによって現実に収容所を生き延び人たちが、映画でその役を演じた俳優とともに、シンドラーの墓に石を捧げるのだが、最後に花を置いて、墓の前に佇むロングショットの人は、主役の男優だろうか。名前、忘れたが、良い演技でした。


ちなみに、この映画を見る前に見たナチスのドキュメンタリーによると、ポーランド侵略の前に、ナチスが、ポーランド軍のラジオ局襲撃を偽装する謀略(グライビィッツ事件)をやるのだが、この時、偽ポーランド兵の死体に着せられた軍服は、シンドラーが調達したものだそうだ。ナチス版、柳条湖事件である。これは「陰謀論」ではなく、ニュールンベルグ裁判で、実行犯のSS将校が証言している有名な史実である。ナチスといい、戦前の帝国陸軍といい、今のロシアといい、侵略国がやること、主張することは変わらないということか。


また、シンドラーは、そういう役目を任されるくらい、上層部の信頼の厚いナチス党員だったわけである。考えてみると、杉原千畝だって大日本帝国の高級外務官僚だったわけで、あの時代、そういう立場にいなければ、人助けもできなかったということだろう。敢えて、シンドラーのことは調べないが、エピローグのキャプションによれば、戦後、結婚にも事業にも失敗し、不遇な人生を送った人のようだ。ここは素直に、人生のある時期、並々ならぬ良心の輝きを発することで、歴史に名を残すことになった人物として、記憶に止めておくことにしよう。


ではでは



◇歴史を改変するドキュドラマ。「伝記映画」の三割は嘘?


アイヒマン拘束作戦を描いた劇映画「Operation Finale」

最近、ナチスとホロコースト関係のドキュメンタリーを幾つも見た。ホロコーストの映画やドキュメンタリーには中毒性がありますね。サディスティックな興味ではなく、「人間はこんなことまでやれるんだ」と、ちょっと静まり返るような気持ちになる。そこから、「じゃ、おれなんかもうおしまいだ」と飛躍すると、なんか諦めがついたような、シンと落ち着いた気分になる。中学の教科書で習ったナマハンカな知識で言うと、ギリシャ悲劇がもたらす類の、カタルシスがあるのですね。と言っても、そこに止まっていられるわけではなく、生活していると、また、いろいろ雑念が湧いてきて、ざわついた気持ちになるのだが・・・。そこでまた、ホロコーストの映画が見たくなる・・・こういうサイクルの中毒性ですね。


それはさておき、今回、ドキュメンタリーをいくつも見て、歴史的事実を記録するのが建前のこのジャンルでも、結構、細部に食い違いがあることに気づいた。歴史解釈の違いではなく、単純な事実の食い違いである。例えば、ナチスがSA(突撃隊)を大粛清する時、SAの司令官エルンスト・ロームを殺すのだが、Nという某配信サイト制作のドキュメンタリーでは、収監されたロームにヒトラー自らが、実弾入りの拳銃を渡して自決を迫る。一方、「ヒトラーの共犯者たち」というドキュメンタリーでは、SS(親衛隊)のメンバーが拳銃を渡して、「自決せよ」というヒトラーの命令を伝えるのである。ロームは、命令を拒否して、SS隊員に射殺される。この結末は動かし用のない歴史的事実。


どちらも、いわゆるドキュドラマで、随所に再現シーンが配置される構成である。N制作のドキュメンタリーで、初めに、この再現シーンを見た時、「リスキーすぎるではないか!」と、驚いた。ドキュメンタリーである以上、再現シーンも、一応、事実に忠実に作るだろうと思っていたのである。しかし、自分の直感は正しかったようで、これは後から見た「共犯者たち」の再現シーンの方が史実だろう。自分が撃たれる可能性がある状況で、ヒトラーが実弾入りの拳銃をロームに渡すはずはない。また、もし、本当に、そういう事実が記録に残っていたなら、「共犯者たち」の制作者が、より劇的効果の高いシチュエーションの方を描かないはずはないのである。前者のシーンは、N制作のドキュドラマが、信用性の低い資料にあった情報を、歴史考証を無視して採用した結果ではないかと思う。あるいは、その部分には記録が全くなく、制作者が自由に想像力を働かせることができたのだ、ということもあり得なくなはないが、このケースでそれは考えにくいのである。


おそらく、日本の作り手は、「ドキュメンタリー」あるいは「ドキュドラマ」と銘打つ以上、一定レベルの歴史的事実への忠実さを再現シーンでも維持していると思うが、海外のドキュメンタリーでは、こういう「演出」は普通にあるのではないか。同じ作品でもう一つ例を挙げると、ヒトラーがロームの寝室に自ら押し入り、「裏切り者!」と決めつけるシーン(こちらは屈強なSS隊員に守られ、丸腰のロームの寝込みを襲ったのだから、前のケースとは危険度が違う)、N制作のドキュメンタリーでは、ロームが若い男と裸で同衾している。一方、「共犯者たち」の再現シーンでは、ローム自身は一人で寝ていて、同じ部屋で同性愛カップルが同衾していたと付け加えることで、ロームが同性愛者であったことを匂わせている。こちらも、前と同じ理由で、後者が事実だろう。その時、ロームがベットで男と裸でいたのが事実なら、その絵の方が面白いしわかりやすいのだから、映像制作者は、そう描いたに違いなのである。描かなかったのは、それが歴史的事実ではなかった、という理由以外考えにくい。


しかし、ドキュメンタリー、ドキュドラマだから、まだ、この程度ですんでいるのであって、劇映画となると、歴史的事実の劇的演出、脚色の度合いは、さらに著しくなる。モサドによるアドルフ・アイヒマン拘束作戦を描いた劇映画「Operation Finale」を、先ほど見終わったが、ファクトチェックしてみると、脚本化にあたって、相当な、歴史的事実の改変があったようだ。


例えば、アイヒマンがアルゼンチンにいるという情報がモサドにもたらされるのは1953年なのだが、映画では1960年のドイツの捜査官からの情報が発端となっている。(これも、事実は1957年)その情報源が、アルゼンチン在住のモサド協力者の娘という点は事実だが(この娘のボーイフレンドがアイヒマンの息子だったのだ)、ストーリーを単純化し劇化するするために、本人確認の情報が全て彼女によってもたらされたかのように脚色している。事実は、モサド要員が、不動産ディベロッパーを装ってアイヒマン宅を訪問し、隠しカメラ(書類カバンに穴を開けた原始的なもの。こういうものが一般化した現代ならすぐバレるだろう)で撮った写真が決めてとなった。アイヒマンの左耳骨は、特異な形で突出しており、その形状が写真の人物と完全に一致したのである。モサドは、これによって「90パーセントの」確証をえて(モサドは、誘拐後にアイヒマンの自白を引き出し、100パーセント本人だと確認した上でイスラエルへの身柄の移送に踏み切った)、アイヒマン誘拐作戦にゴーサインを出したのである。映画では、娘がアイヒマン宅を訪れた日(お祝いの花がテーブルに飾られていた)と、アイヒマン夫妻の25年目の結婚記念日が一致したことが、作戦へGoサインを出す決めてとしているが、これも、モサド要員の内偵の過程で、アイヒマンがその日に花を買ったという情報が上がってきていたのである。


映画の最後に、「この映画は誰にも原作料を支払っていないし、誰の証言にも依拠していない」という内容のテロップが流れる。アイヒマン誘拐作戦については、2冊、関係者の回想記が出ていて、一冊は、当時のモサド司令官イサル・ハルエルのもの、もう一冊はアイヒマンを羽交締めにして、車に連れ込んだ誘拐の実行役、ピーター・マルテンの Eichmann in My Hands である。映画の主人公はマルテンだから、当然、彼のストーリーに依拠しているはずだが、こういう但し書きをエンドロールの最後に入れる事になったのは、おそらく、原作者と脚色について折り合いがつかなかったからだろう。普通は、原作者のクレジットを入れた上で、「基本的には実話に基づくが、構成の必要上少しの改変を加えてある」としたりするものだから、おそらく脚色の度合いが、原作者の許容限度を超えたものだったからではないか。


映画に出てくるマルテンの恋人で、アイヒマンを麻酔で眠らせる役割のアンという女性医師は、事実としては、Yonah Elianという名の男性であり、映画に恋愛の要素を加えるための架空の人物である。映画制作者は、このイスラエルの英雄の一人に敬意を表すために、女性の姓を Elian としているが、このあたりがマルテンと折り合いがつかなかった理由ではないか? また、モサドチームは、アイヒマンに「イスラエルへの移送に同意する」という旨の書類にサインさせるのだが(驚くべきことにこれは事実なのである)、映画では、アイヒマンの説得に成功したのがマルテンということになっている。しかし、アイヒマンの尋問役のエキスパートは他にいたわけで、この部分も、主人公へ物語を収斂させるための脚色だと思われる。あくまで推測だが、マルテンは同僚の手柄を横取りするような歴史の改変を許容できなかったのではないか?


しかし、この映画は、ホロコーストという現代史最大、最悪の悲劇に関わる作品であり、原作者(?)が、泣く子も黙る特務機関の関係者で、イスラエルの国民的ヒーロー(マルテンがアイヒマンを捕獲した時の「手袋の銅型が」博物館に展示されているほどだ)という特殊事情があったから、ここまで、神経質になったのであって、通常の「実話に基づく」映画では、めちゃくちゃ気軽に、カジュアルに、面白く見やすくするための脚色、言葉を変えれば、歴史の捻じ曲げが行われているようだ。


アカデミー賞をいくつか受賞したクイーンの「実録映画」なども、フレディ・マーキュリーがHIVウイルス感染をメンバーに告白して、ライブエイドのコンサートへ臨むクライマックスへの流れなど、明らかに、時系列が事実と異なるし、フレディの最後の恋人との馴れ初めなども、ほとんど構成として破綻していると思われるほど、事情を省略してしまっている。「残ったメンバーがよく承知したな」と思っていたら、フレディ・メイが監修についていた(笑)メイが、この脚色による事実の改変に同意したというのである。「なるほど!ハリウッドにおける監修とは、『口止め』の意味もあるのだな」と納得した次第である。


これもアカデミー賞を受賞したジュディ・ガーランドの伝記映画も、相当に「作り込んだ」作品のようだ。例えば、二回目のロンドン公演のあと、会場の外で出待ちをしていたゲイカップルの家にジョディがついていき、ピアノの弾き語りで一緒に Get Happy を歌い、ゲイの人が泣き出すシーン。映画で一番感動した場面だし、英国のような国で、1960年代になってもまだ同性愛を禁じる法律があり、罪に問われて収監される人がいた事を知って衝撃を受けたのだが、このゲイカップルは、LGBTQのアイコンとしてのジュディを描き出すために創造された架空の人物だということだ。また、映画のクライマックスに、途中で歌えなくなったジュディを励まして、観客がみんなで「虹の彼方に」を歌う、感動のシーンがあるが、これも実話ではないという。


しかし、映画のクライマックスシーンのタネになるような出来事はあったたらしい。あるコンサートで、ジュディが、「虹の彼方に」の高音部がうまく出せず中断した時、少女が立ち上がって歌い始めたのである。ジュディは、笑いながら、その少女に拍手を送っていたという。以下、ソース記事。



だからと言って、この映画がダメだとか、偽物だとかいうつもりは全くなく、この映画は好きだし、今見ても、ゲイカップルのシーンや、クライマックスの「虹の彼方に」には感動する。一方で、フレディの「伝記映画」は、作りが粗雑だなあと思うし、フレディを演じた男優が、肉体的にも、精神的にも、フレディの縮小再生産に見えて好きになれなかった。評判が高かったライブエイドの再現も、映像をYouTubeで探して実物を見た方がよっぽど感動的である。要は、作品の出来と、見る人の好みの問題なのですね。


一つだけ言いたかったのは、こういう「伝記映画」「歴史映画」の内容を全て事実だと思って見てはいけないということ。まず例外なく、脚色のための嘘がある。森鴎外の歴史小説論争ではないが、文学作品なら、出版社の思惑や読者の都合を考えなければ、「歴史そのまま」が可能だろう。しかし、決められた時間の流れの中で展開する「見せ物」であり、かつ商業的利益を追求する映画というジャンルでは、歴史のディーテイルをそのままで作品にすることは不可能なのである。


欧米では、「歴史的事実が全てではない」という前提でこの種の「伝記映画」を見ているようで、そういう映画が公開されれば、必ず上記のような、映画の内容と事実を比較した記事が出る。「ワンスアポンナタイムインハリウッド」の時も同種の記事が出ていて、非常に面白かった。また、そういうメディアのルーティーンを、「野暮なことをするな」と怒る野暮な人もいないのである。脚色していることは当たり前の前提なのだから、「どこまで本当のことなの?」という観客の関心に、メディアは答える義務があるわけだ。


と、極めて当たり前のことを書いてしまったが、今回、ドキュメンタリー映画、あるいはドキュドラマを続けて見てみて、「記録映画」というジャンルでさえ、歴史のディテールの改変、脚色と無縁でないことを発見し少し驚いたので、こういうことを書いてみた。


ではでは





◇Camp Confidential: America's Secret Nazis~ナチス亡命科学者の秘密キャンプ(ドキュアニメ)



NetFlix 制作30分くらいのドキュメンタリードラマ、というかドキュメンタリーアニメ。ナチスドイツの亡命科学者、技術者を協力させ、兵器技術を取得するために、戦争末期に作れらた米軍の施設があった。PO Box 1142とコードネームで呼ばれた、この秘密キャンプは、収容所のイメージからは程遠く、プール、テニスコート付きの、避暑地のような場所で、科学者たちを懐柔し情報を引き出すための接待役には、ホロコーストを逃れてアメリカに渡ってきたユダヤ人の兵士たちが選ばれた。ドイツ語に堪能だったからである。


ドイツの降伏後、NASAやCIAに雇用されたナチス系の科学者は1600人に及び、このキャンプで厚遇された科学者の中には、V2ロケットの開発者で、アポロの月着陸を成功させた宇宙開発のヒーロー、フォン・ブラウンも含まれている。キャンプは1946年に閉鎖され、軍から厳重な守秘義務を課せられた収容所スタッフの多くは、秘密を墓場まで持っていったが、このドキュアニメで、二人のユダヤ人旧スタッフが、当時の複雑な胸の内を語り、米軍の最高機密に関わる貴重な戦後秘史を証言してくれている。


再現シーンにアニメーションが使われているのだが、フォン・ブラウンたちを引率して、ユダヤ資本のデパートに連れて行き、彼らが奥さんへのプレゼントにランジェリーを買うシーンなど、うまくアニメ化していて、面白く見れた。ドイツ風の長いコートを着込み、興奮してドイツ語ではしゃぐ彼らが、目立ちすぎで憲兵に逮捕され、キャンプに連れ戻されるのだが、こういうエピソードは、やはり、実話でないと出てこない。ドキュメンタリードラマの再現シーンをアニメで処理する作品を初めてみたが、悪くないと思った。現実と再現シーンとの落差が、表現方法のジャンルが異なるため、返って気にならないような気がするのである。


考えてみると、今のAIの技術を持ってすれば、歴史上の人物を、声も含めて完全リアルに再現し、ドキュメンタリーの合間に再現シーンとして配置していくことなども可能になるのではないか?というか、予算と時間の問題でそこまでやらないだけで、もう技術的には可能なのかもしれない。自分が見たいのは、例えば、坂本龍馬のドキュメンタリーである。写真が何枚か残っているので、これは、ある程度可能なのではないか?声は、骨格から近似的に再現する。これは、以前、何かのテレビ番組で見たことがある。


ではでは




◇ドキュメンタリー「普通の人たち~忘れられたホロコースト」ORDINARY MEN - The "Forgotten Holocaust" ・・・映画感想文




この間、ユダヤ人の「処刑」に従事する憲兵部隊のドキュメンタリーを見ました。アウシュビッツなどでのガス室による機械的殺人の前段階、ナチスは、集団銃殺によって200万人近くのユダヤ人を殺しているんですよね。「アインザッツグルッペン」と呼ばれる処刑部隊によるユダヤ人虐殺である。


その映画は、ハンブルグから「アインザッツグルッペン」として派遣されたある憲兵部隊をドキュメントしているのですが、隊員は、「任務」の内容を事前に説明され、拒否権を与えられているにもかかわらず、拒否したのほんの一握りで、ほとんどの隊員が任務を受け入れたのですね。拒否した隊員達は、軍法会議にもかけられず、炊事、洗濯などの雑務をさせられながら、任期を終えている。なぜ、大半の隊員達(その多くはリベラルな思想傾向の持ち主で、ワイマール的な社会民主主義の支持者も多かった)は、女、子供、赤ん坊まで殺す、非人間的な「任務」を拒否しなかったのか・・・というのがドキュメンタリーのテーマでした。


納得できる答えは見つからないのですが、私の印象としては、「集団圧力」というような大仰なものではなく、周りの人に対する、「義理の悪さ」「気兼ね」みたいなものから、拒否できなかったようなのです。「自分だけ嫌な任務から逃げて、仲間に負担を押し付けたくない」、あるいは「押しつていると思われたくない」というような・・・そういう卑近な人間関係への顧慮が優先されたようなのですね。


結局のところ、我々は、抽象的な「世界」の広がりのなかに生きているわけではなく、職場とか家庭とか隣近所とか、ごく狭い人間関係の中で生きているわけで、ああいう極限状態に置かれると、「赤ん坊を殺すこと」と「隣人への気兼ね」みたいな、倫理的には等価ではあり得ないことを、「ついつい」等価に位置づけてしまうのではないか、いわば習慣的にそうしてしまうんではないかと・・・。だって、そんな、突拍子もない選択を迫られたことは今までなかったでしょぅし、迫られると想像したこともなかったでしょうから、習慣的に身近な人への顧慮の方が優先されてしまった。・・・と、どうもそういう事のように思われました。


といっても、「処刑」を実行する隊員達にとっては、相当な精神的負担になったようで、「任務」を実行したあと、隊員達は、アルコールをふんだんに与えられ、酒浸りになって精神を麻痺させたそうです。そして、様々、奇妙な口実を作り出して自分の行為を正当化した。自分が一番衝撃を受けたのは、「自分は、赤ん坊だけを銃殺する。母親が死ねば、子供はいずれにしろ生きていけないから」という、ある憲兵の恐るべき論理でした。(「アインザッツグルッペン」の公式な処刑方針は、銃弾を節約するために、子供と、子供抱いた母親を1発で撃ち抜くというものだった)


ナチスドイツが、アウシュビッツのような施設を作ったのは、この「虐殺任務」による兵士の精神的荒廃が深刻になったことが理由の一つのようです。最近、「関心領域」という映画が評判になっているようですが、ああいうとんでもない事態が隣で進行していても、周りのみんなが知らぬふりをしている時に、何事もなかったように振る舞うことは、「任務による虐殺」を強制されるよりは簡単な事ではないかと思いました。ドイツ国民の「関心領域」を限定することが、ナチスの狙いだったのですね。


「関心領域」予告


ドキュメンタリーの終わり頃、「アインザッツグルッペン」の証拠を発掘し責任者を告発したユダヤ人の検察官は、アメリカメディア(CNN) から「彼はモンスターだったか?」と聞かれて、「普通の人間だった」と答えたことを語っています。そして「広島に原爆を投下したエノラゲイの搭乗員はモンスターでしたか?最終的な判断を下したのはトルーマンでしょ?」と問い返している。この言葉の思考の深さに衝撃を受けました。広島、長崎も「関心領域」の問題だったのである。


2024年9月1日


ではでは



◇ドキュメンタリー「アインシュタインと原爆」 映画感想文



またしても某配信サービス制作のドキュエンタリー。何故、「平和主義者」アインシュタインが、原爆開発のスピードアップを大統領に進言する書簡に署名したか」、これが映画のテーマである。答えは、自らユダヤ人でもあったアインシュタインが、ナチスドイツが先んじて原爆を手にする可能性に恐怖したから・・・なのだが、 この映画によれば、その心境は、以下のアインシュタイン自身の言葉に集約されるのだろう。


Organized force can be opposed only by organized force.

(組織的暴力には、組織的暴力によってしか対抗できない)


空想的平和主義が、ナチスドイツという圧倒的に理不尽な現実の暴力に直面し、変節を余儀なくされたのだ・・・と言えなくもない。ちょっと次元が違うが、ベトナム反戦で有名な平和主義者で、クェーカー教徒のジョン・バエズが、ロシアのウクライナ侵略では、侵略に抵抗する道を選んだゼレンスキー支持を表明したことを思い出した。


しかし、この映画、ドキュメンタリーとは言えず、ドキュドラマとさえ言えないかもしれない。映画の冒頭で、「映画はすべて、アインシュタイン自身が発した言葉、書いた言葉で構成されている」と但し書きがあるが、裏を返せば、この約束事さえ守れば、作り手は、相当程度自由に歴史的事実から飛躍して、ストーリーを構成することができるのだ。


その自由さが最大限に発揮されているのが、アインシュタインが日本人記者 Katsu Hara と対面する場面である。Hara はアインシュタインに「科学は人類の福祉と幸福に貢献するべきものなのに、あなたは、なぜ、あのような破壊的兵器の開発へ道を開いたのか」と詰問するのである。アインシュタインは、「自分は原子爆弾の開発には手を貸していない。自分が犯した唯一の過ちは、核兵器の開発を大統領に進言する書簡に署名したことだけだ」と抗弁するのだが、歴史的事実は、アインシュタインは、日本人記者 Hara には会っていないのである。


注意深く見ると、このシーンは、「苦悩するアインシュタインの見た白昼夢」として描かれているのだが、初見の無知な鑑賞者は勘違いするだろう。自分は無知だからやはり勘違いして、「そんなことがあったのか!」と驚き、調べてみるとこういうことだった。


以下、The Cinemaholic の解説記事から。


Katsu Hara は雑誌「改造」の記者で、アインシュタインに質問状を送りつけた人なのだ。アインシュタインは、その手紙に返事を書き、「改造」編集部に送った。二人の対面シーンは、その往復書簡の内容を、映像化したものなのだった。


「改造」は、戦前の左翼系有力論壇誌(宮本顕治はこの雑誌の懸賞論文で一位をとり文壇デビューを飾っている)であり、戦争末期に休刊したが、戦後、短い期間、再刊している。Hara の書簡はその頃送られたようだ。「改造」は、アインシュタインとは縁があり、戦前にアインシュタインが日本を訪問した際には、講演会を主催し、その後、博士の全論文を翻訳、出版している。


Hara については、多くが知られておらず、娘の Aoi Hara が、飛行機事故で亡くなったことくらいしかわからない・・・と Cinemaholic の記事は記している。


もし、映画鑑賞後に調べていなかったら、「戦後、アインシュタインに会って、面と向かって糾弾した日本人記者がいた!」と間違えて記憶していたことだろう。最近は、ドキュメンタリーと題されていても信用できない。くわばら、くわばら


映画では、平和主義者アインシュタインの苦悩にフォーカスし、理想化されたアインシュタイン像を描いているが、この近代物理学の創始者は、相当にタガの外れた家庭内暴力者であり、15人以上の婚外子を産ませた桁外れのウーマナイザーでもあったようだ。本当は、そういうネガティブな面も描かなければ、「伝記映画」としてはフェアではないのだが、今回のテーマは「原爆」なのだから、これは仕方がないと思う。



この映画で描かれた、社会的ペルソナとしての理想主義者アインシュタインの一面は、間違いなく存在したのだ。その点は、「公にされたアインシュタインの言動からのみストーリを構成する」という映画のセルフルールによって担保されている。ただ、写真や記録映像で表現する従来の記録映画と違って、現代のドキュドラマは、役者の肉体を通して、いやもおうもなく、ある特定のキャラクターを歴史的人物に付与してしまうのである。ここまでくると、もはや劇映画と変わらないのではないか。


ではでは


<了>

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