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熱帯季題駄句貧句集

  • somsak7777
  • 5月15日
  • 読了時間: 45分

更新日:5月19日

◼️今日の一句〜熱帯季題「熱帯」



2026年3月7日(土)


虚子歳時記(昭和15年版)の熱帯季語を実作付きでまとめておいた。



季語「熱帯」から始まっている。虚子の句である。できるだけ、この「まとめ」の、上から順番に作っていくことにする。出てこない時はパスして次に進むが、俳句とは、自然にできることもあるが、基本的には題を与えられて絞り出すものらしい


出てきた!ここで一句。


トッケーの声けたたまし熱帯夜 万斛


このトカゲの鳴き声はバンコクでは聞けない。田舎の夜の、扇風機の音の他は「ほぼ静寂」の中でトッケーの鳴き声が響くと、いきなり大音量でカラオケを始まったくらいの衝撃がある。スピーカーを通しているとしか思えない大音声でトッケーと鳴くのである。正確には、トッケー、トッケー、トッケー、ケケケケケケケ、みたいな風に鳴く。


一方、チンチョと呼ばれる体長5〜10センチくらいの小型のヤモリは、舌打ちするように、チッチッチッとかすかに鳴く。こちらは、蚊やシロアリを食べてくれる益獣であり、鳴き声も控えめなので、タイ人に好感を持って受け入れられているようだ。


しかし、このチンチョは、浴室や便所で数十匹が壁に入りついていることがあり、そういう時は、ウジャウジャいる感じが気持ち悪い。そこで一句、


熱帯のヤモリ群れおる灯火下 万斛


チンチョとトッケーは「熱帯季語」にしてもいいかもしれない。雨季に大繁殖するように思うので、雨季の季語とするべきだろうか。しかし、季節のイメージと強く結びついているわけではないから、やはり、虚子がしたように、日本人の持つ「熱帯」にイメージが重なる「夏」の部に一括りにした方がいいような気がする。


ちなみに、「熱帯」を詠んだ虚子の句は、


熱帯の海は日を呑み終りたる 虚子


という壮大な叙景句。夏井先生によれば、比喩を俳句で使うのは大変に難しく、初心者には鬼門らしいが、流石に虚子の句だけあって大変にクールである。比喩句だけど、いつか見た洛陽の光景がまざまざと目に浮かぶのだ。


自分が詠むと、例えば、


熱帯の日ジュッと沈みて終わりたる では太


と平凡、卑俗となる。


ただ、これは虚子の句にも言えることだが、「熱帯の日」という言葉には、「熱帯の太陽」と「熱帯の1日」というダブルミーニングが潜んでいて、二つの意味を合わせて、「ジューっと太陽が海に沈んで、暑かった熱帯の1日が終わる」という意味にも取れるところが、少しだけ面白いかもしれない。


あと、線香花火がジュッと終わる時の小さなオレンジ色の火玉、あのイメージも入っているが、やっぱり、雄大なはずの夕陽と海の光景がグッと矮小化するわけだ。



◼️今日の一句〜熱帯季題「馬来正月」「朝陰」




2026年3月8日(日)


今日の一句、「馬来正月」。マライ正月とはラマダンのこと。


馬来正月ほっぺに含む砂糖菓子 万斛


酒を飲まない彼らはやたらに甘いものを食う。食べ盛りの子供なら尚更だろう。食べ物に不自由する気の毒な人に思いを馳せることが、この宗教的習慣の意味らしいが、日が落ちてから暴食するのだから、ラマダン月は肥満児製造月でもあるのではないか?


句中の砂糖菓子とは、断食明けのお祈りの後に最初に食べる、ナツメヤシの砂糖漬けのこと。学校に上がるちょっと前くらいの男の子が、父さんに口に入れてもらったデーツ(ナツメヤシのマレー語、あるいは英語?)をじっと口に含んでいる・・・そういうイメージの句である。


デーツの画像は以下で、


もう一つ、季題「朝陰


水とかげ朝陰の端に泳ぎいる 万斛


「水おおとかげ」は、タイ語で「銀と金」と呼ばれるオオトカゲで、時々、セブンイレブンや民家に侵入して人を驚かせ、ニュースダネになる。幸運を運ぶとも言われていて、首相官邸からこの大とかげが逃げ出したりすると、「この首相はそろそろ退陣だな」と政治ニュースになったりもする。


「水おおとかげ」の昔からの俗称は「ひあ」と言い、これは、英語のF○CKにあたるSwear Word でもある。テレビの放送ではピー音が入るが、実際には、すごく頻繁に会話に挟み込まれることも、英語のF○CKと似ている。そこにいない友達の悪口を言う時の「あの野郎、ふざけやがって」の「あの野郎」みたいなニュアンスで使うのだ。その場合は「あいひあ」と言う。


滅多に見られないトカゲなのかと言うと、そうでもなく、クロントイの下水運河のあたりを歩いていると、遭遇する可能性はかなり高い。


「水おおとかげ」の映像は以下で。



季語「赤道」は全然句が浮かばないのでパスした。


ではでは


<了>



◼️今日の一句〜季語「赤道」「木陰」「オアシス」




2026年3月9日(月)


今日の熱帯俳句。季語「赤道」「木陰」「オアシス」


▪️「あれ、地球儀の赤線?」と指差す先の赤道標 では太


赤道の句、一応思いついたので発表。赤道の辺りを航行していると、南海の孤島に赤道標なるものが立っているのに遭遇するらしい。高浜虚子の昭和15年版歳時記には次の句が掲載されている。


島に立つ赤道標や十字星 北浪


自分が、もし、そういうものに出会ったら、こういう幼稚な感想を述べるのではないか。そう想像して作った。めちゃ字余りだが、「字余りは初句に持ってくる」というプレバトで習ったセオリーに従った。新しい物を見て、エキサイトしている感じが伝わればいいのだが。実際には見たことがないけども、大海原に浮かぶ小さな島に赤道標がポツンと立っていることを想像すると、やはり、ワンピース風、海洋ロマン風に気持ちが昂るのである。


▪️赤蟻の顎だけ残る木陰かな 万斛


二つ目は以前に投稿済み。木陰にいて時々えらい目に遭わされる「熱帯アリ界のすっぽん、赤蟻」を詠んだ句。特にマンゴーの木の下が危ないのだが、マンゴーを入れると季重なり(マンゴーも虚子の熱帯季題に入っている)になるし、字数に入らない。赤蟻に刺されたことのない人には意味が分からない句だろうが、元々、俳句とはそういうものだろうから、♪どーだっていいぜ、問題はなあああああし!


▪️雨の木がオアシスとなる露天市 万斛


雨の木とはレインツリーのことモンキーポッドともいう。ガジュマルの木みたいに、大きく横に枝を張って、長大な陰を作ってくれる有難い大木である。ガジュマルとの違いは、一本の幹から出て枝を四方に伸ばすところらしい。


北タイ方言でチャムチャー、イサン方言でサムサー、中央タイ語ではカンプーとかチャムチュリーと呼ばれる。カンプーは「蟹の爪」の意。実の形が似ているらしい。レインツリーは、チュラロンコーン大学のシンボル的な木でもあり、校内の並木は卒業写真の定番スポットとして有名だ。大学に隣接するショッピングセンターの名前も「チャムチュリースクエア」である。


情景としてのオアシスはタイにはないので、季語が比喩、喩えとして使われることになった。だから俳句としてはダメなのだろう。「雨の木」が季語っぽく目立ってしまっているが、こちらはタイの中に具象として存在するのだから、そうなるのも仕方なし。お寺とか学校とかで開かれる不定期市を訪れた人々が、日差しを避けてレインツリーの下いる。そういう情景を詠んでみた。


<了>



◼️今日の一句〜熱帯季題「貿易風」「スコール」



▪️パラオの海のたりのたりの貿易風 万斛

添削 パラオの海をのたりのたりと貿易風 万斛


タイの自分の住んでるあたりは季節風の影響が強くて貿易風は吹かない。だから想像で作った。与謝蕪村の有名な句のパクリ。とにかく捻りだすことが重要なのだ。


虚子の歳時記に掲載された句は以下、


国旗ふく貿易風は日もすがら ましろ


貿易風は南北緯度30度内に年中吹いている恒常風・・・とWIkiにはあり、タイはその緯度圏内に入っているが、私の住むイサン地区では季節風の影響の方が強く、貿易風は吹かない。ただ、乾季になると、大陸から北東季節風が吹くので、貿易風と風向きは同じとなる。


最初、上の句を読んだ時、完全戦後生まれの自分は、国連本部前にずらりと並ぶ万国旗を思い浮かべたが、戦前という時代背景を考えて、台湾かな、と思い直した。それならば国旗とは日の丸のことである。


字余りになるからかもしれないが、「日の丸」と言わずに「国旗」としたことに、この句の奥行きを感じた。前の東京オリンピックの年に生まれた自分が、この句を抵抗なく受け入れたのもその奥行きのためだろう。(国連前の万国旗としてだが)しかし、台湾はタイと同じく、貿易風よりも季節風の影響を受ける国のようなのだ。


ChatGPTに、年中、東からの風が吹く典型的な貿易風の特徴を持つ国を聞いてみると、パラオの名前が上がった。パラオは戦前、日本の委任統治下にあった島である。(だから、「国旗ふく」の句がパラオを詠んでいたら、その場合も国旗は日の丸である)そこから南洋の穏やかな海を想起して、与謝蕪村の高名な句から「のたりのたり」をパクり、上の句をでっち上げた。例によって初句が字余りである。


▪️クーラーをケチり頼みのスコール来 では太

添削 カラカラの喉にビールを落とすスコール来 では太


電気代が高いので日中はクーラーを我慢してスコールを待つ。夕方スコール、ザーッ、→爽快!・・・という単純な句である。喉の渇きをギリギリまで我慢しておいて、ビールをグーッと飲む、あの一杯目の爽快感と似ている(笑)


虚子歳時記にある句は、


簷下にをどる独木舟(カヌー)やスコール来 圭草


簷下(えんか)は軒下(のきした)と読ませるのだろう。川べりにある民家の様を歌っている。河床から杭を打って川の上に家を建てているのである。だから軒下が舟の置き場となり、スコールが来ると川面が激しく揺れ、つれて舟が「踊る」ように揺れるのである。東南アジアの水上家屋を見たことがある人なら、すぐ情景が浮かぶうまい句だと思う。


それにひきかえ自分の句は俳句なのか川柳なのか・・・「スコール来」(スコールく)だけ使わせてもらった。


ではでは


追記 添削してみた。どうせ下手な川柳風なら、ここまでやった方がマシかと?


カラカラの喉にビールを落とすスコール来 では太


山田洋次の映画で、高倉健が出所後にビールを飲むシーンが思い浮かんだので、「出所してビール飲む気分スコール来」としようと思ったが、流石に分かりにくいだろうと思って、この形にした。日記的な時系列の説明にすぎない前の句よりは、まだしも、マシなのではないか?「確かにあれは、我慢した後、ビールを飲む感じだな」と同意してくれる向きも、少しはあると思うのである。


「星の王子様」の作家が、「砂漠では日没が神となる」と書いていた(と思う)が、「熱帯ではスコールが神になる」のである。そこから「熱帯のスコールは渇して呑むビールである」という名言ができた(笑)これを完全に川柳にするなら、


スコールは冷えたビールの一杯目 では太


熱帯川柳(笑)


<了>



◼️今日の一句、熱帯季題「ドリアン」「仏桑花」


クレーンより高き舎窓の白むくげ 万斛
クレーンより高き舎窓の白むくげ 万斛

 



「赤道祭り」「嫁選び」は全然イメージがわかないのでパス。後者は、歌垣、カレン族の嫁選びみたいなものかな。それなら何かできるかも。


※このリストから上から順番に作っています。


 

▪️ドリアン


ドリアンをかち割る鉈の気合いかな では太


これは、ドリアンを剥き慣れない私の奥さんの場合。


YouTube でプロがドリアンを剥いている様子を確認すると、すぅ、すっと、ドリアンの畝の谷側にナイフを入れて、一つ10秒くらいで房をとっていく。そのナイフの切れ味たるや、恐ろしいほどである。


これがプロバージョン。以下、映像。


こちらで句を読むと、


ドリアンにすっと刃を刺す気合いかな 万斛

ドリアンをサクサクと割く長ナイフ 万斛


虚子歳時記で掲載の句は。


明易くドリアン落つる谺かな 楚江


と格調高い。「明易く」は「夜が短かく、もう夜があけている」みたいな感覚の言葉。実際に体験しないと作れない句だと思う。


「谺(こだま)」という言葉選びが効いている。ドリアンが土に落ちる微かな音が、大きく響くくらい静かだったのである。もう少し経つと、田舎の朝は鶏が鳴き出しりして、それほど静かではなくなる。「明易く」の一時だから、谺として響くくらい静かだったのだ



▪️仏桑花(ふっそうげ)


仏桑花はじらいもなく雌蕊垂る 万斛

 

「仏桑花」(ブッソウゲ)とはハイビスカスのこと。自分はあの花、特に節操なく伸びた花柱と雌蕊が嫌いなのだ。気持ち悪い。自分には珍しく性的暗喩がある句。俳句というのは自分が嫌悪するもの、おぞましいものを詠んでもいいのだ。


獣屍(じゅうし)の蛆如何に如何にと口を挙ぐ 中村草田男


どうです、すごいでしょう!


冒頭写真につけた句は、白い槿の花として詠んでいる。ハイビスカスは赤のイメージが強く、白槿とは完全にイコールではない。同じくアオイ属フヨウ科だが、ハイビスカスは南国原産でハワイの花というイメージ、槿は東アジア原産で韓国の国花である。


ちょっと添削すると、「舎窓」がわかりにくいかもしれない。槿もハイビスカスに変えて、


クレーンより高き窓辺の仏桑花 万斛

 

写真のハイビスカスはバンコクにいた時、アパートのベランダで撮ったもので、元の句もその時に作った後ろにボケて写っているのは、シーロムあたりのビル群である。この鉢植えのハイビスカスを田舎に持ってきて庭に植えたら、大人の背丈くらいに成長して毎年花をつけている。実際のところ、槿なのかハイビスカスなのかはよくわからない。


<了>



◼️今日の一句〜熱帯季題「マンゴスチン」「マンゴー」+「永遠の嘘をついてくれ」




▪️マンゴスチン


耳下腺痛しひと匙のマンゴスチン では太

 添削 耳下腺にきたマンゴスチンのひと匙 では太


これは虚子歳時記に例句がなかった。


当時、マンゴスチンは、東南アジアを旅しても遭遇することが少ない、希少な果物だったのだろうか?そういえば、自分が子供の頃は、スイカなどは旬のもので、夏しか食べられなかったと思う。今なら、タイに来れば、マンゴスチンくらいいつでも食べられるが。


耳下腺(じかせんと読ませる)とは、耳の下あたりにある唾液を分泌する腺。マンゴスチンというのは、かなり強烈に酸っぱい果物なのだ。甘いイメージより酸っぱいイメージ。顎の奥が痛くなるくらいに酸っぱい。


もう一句、マンゴスチンは、あの分厚い表皮のドス黒い赤が印象的なのだが、いい形容が見つからなかった。以下は、いろんなタイプの赤を集めた色見本。ここで色を選んでみた、本当はどどめ色がいいのだが、語感が悪すぎる。


「赤系の色一覧」


血の色で言うと、動脈系ではなく静脈系、しかも、それが凝血した感じ。無理やり作ってみる。色は主に語調の関係から唐紅(からくれない)とする。これはハッピーエンドの曲「ハイカラハクチ」からの連想でもある。


(一番)♪きみはハイカラ唐紅のおー、(2番)きみは肺から血を吐きながらー


というあれである。以下、動画のアドレス



脱線しがが句の方はこれ、


マンゴスチンの唐紅を裂きおる指 万斛

 添削 マンゴスチンのからくれないを指で裂く では太


そして、その指は、カラオケのお姉さんの指・・・だった、というオチでした。タイのカラオケとマンゴスチン、これには切ってきも切れない関係にある。しかし、これだと、赤は動脈系の赤になってしまう。


だからもう一句、「ハイカラハクチ」の印象から直接に、静脈系で、


静脈血が固まり凝るかマンゴスチン 万斛

 添削 静脈血が凝り固まるやマンゴスチン 万斛


しかし、割ってみると、真っ白の小さな果肉がつましく隠れている。このコントラスト!



▪️マンゴー


雨雲やマンゴーのーそりのそりとす 万斛

 添削 雨雲来てマンゴーがのそりのそり では太


これは、今、窓から見ている情景を詠んだ。


自分の勉強机(仕事机と呼ぶには、あまりにも仕事をしていないので)から見える窓の外に、義母が野菜を植えた畑があり、その奥、隣家との塀の前に高さ5メートルくらいのマンゴーの木がある。最近、雨季への端境期に入って雨がときどき降るのだが、雨雲が来て空が暗くなり始めると、このマンゴーの木が、もっさり、ゆったりと、象が頭を振るように鈍重に揺れるのである。木が狂った(気が狂った)ようにマンゴーが踊り出すのは、風が強くなるもう少し後のことだ。


いわゆるマンゴーシャワーというのは、乾季の終わりから本格的な雨季に入るまでに降る雨のことで、マンゴーの実の成長を助けるので農家にとっては恵みの雨なのだそうだ。しかし、風雨が激しすぎると、木そのものが倒れてしまったりするから、それほど牧歌的な話でもない。越してきて2年になるが、その間に2本、マンゴーの木が折れて枯れている。


マンゴーの木が揺れ始めるのを見ると、「どっどどどどうど、どどうどどどう」という、あの伝説的擬音、「風の又三郎」を思い出す。だからこの俳句ではオノマトペを使おうと思った。「のーそりのそり」というのは、大型哺乳動物がごく控えめに歩く時の「のそりのそり」という、あの擬態語である。そのまま使っても面白くないので、「のーそりのそり」とリズムに変化をつけた。


「雨雲や」とすると雨雲が季語みたいだが、 ChatGPTによれば雨雲は日本の歳時記では季語になっていないそうだから、少なくとも季重なりにはならない。日本の気候だと、雨雲はいつの季節にも出現するので、季節を表す言葉とセットで使われるのが普通なのだそうだ。タイの場合、雨雲が出る季節は限られてきて、より季語的なイメージになるが、どうせ素人が作るいい加減な句だから、♪どーだっていいぜ問題はなああああし!


ちなみに、虚子歳時記の例句は、


マンゴー籠マニラ土産の友老いし 蒼石


・・・という、昭和っぽい、吉田拓郎っぽい句だった。というか、中島みゆきが吉田拓郎に向けて作ったらしい「永遠の嘘をついてくれ」という歌を思い出した。下、両者が共演してその歌った神ビデオ。原曲で友人はより先端的な街、ニューヨークや上海にいるのだが。



吉田拓郎は完全に楽屋をバラしてしてしまったが、中島みゆきは「永遠の嘘」をつき続ける覚悟らしい。俳句とは関係ないが・・・。黙って現れて、黙って去る。少なくともそういう演出である。拓郎に「あんたしっかりしなさいよ」と言っている感じ。


それはさておき、


この句は、南洋で一旗あげるぞと怪気炎を挙げていた、ちょっと胡散くさい感じの若い頃からの友人に久しぶりに会って「こいつも年取ったなあ」と軽いショックを受けている。そういう句なんだろう。昭和大陸浪人風ロマン。今じゃ、フィリピン帰りも、タイ帰りも、胡散臭く見られるだけだが、戦前の句であることを加味して読むとそういうイメージになる。


ではでは


<了>



◼️今日の一句〜パパイヤ、竜眼




この辺りは果物が続く。


▪️パパヤ(パパイヤ)


目があってうなずくパパヤ採っていく では太


親戚が来て、庭にあるパパイヤを阿吽の呼吸で採っていく。別に改まって説明することもない。そういうタイの村生活のルーティーンを歌った句。ちゃんと断って採って行くこともあるが、断らないでも、こちらは何となく理由がわかっている。


念の為に言っておくと、「自分の場合」、この句のようなことは、村落生活に溶け込んでいるから起こるのではなく、むしろ「こいつには説明してもわからないだろう」と思われているからそうなるのだと思う(笑)現実はそういうことなのだが、この句自体は、タイの村落生活のアヤを一般的に詠み、一般的な意味合いを説明してみた。


閑話休題。例えば、パパイヤを借りにくる理由は、


帰省した娘がせがむ青パパヤ では太


バンコクから久しぶりに帰省した娘が、ソムタムが食べたいと言い出した。家のパパイヤの木は実が落ちたので、親戚のところに借りに来たというわけだ。だから、採って行くのは、黄色く熟した甘いパパイヤではなく、千切りにしてソムタムに使う青パパヤ。こっちは、娘が帰ってきたことは知っているから「多分そんなところだろう」と思っているのである。


この句にしても、イサーンの生活に関する共通体験や知識がないと理解できないと思うが、俳句とは元々そういうものだから仕方がない。つまり、熱帯俳句とは、極めてニッチなオーディエンスを対象とした共通感覚のアートなのである。


自分の場合は、オーディエンスは自分だけ、あるいは、読んでくれている人がいるとしても5、6人・・・と、そういうレベルだろう。に、しても、それなりに楽しむことはできるのである。だから、独房で一人で時間を過ごす必要がある時に、持ち込むべきは歳時記なのだ。いや、最悪、歳時記さえ必要ない。脳みそ一つあればできる娯楽なのだから。


ちなみに、虚子の熱帯季題では、パパイヤではなくパパヤとなっている。タイポではない。



▪️龍眼


龍眼の何やら喉に刺さりおり 万斛


龍眼の薄い皮を剥いて食べると、皮なのかヘタなのか、何かの細かなカケラが、ほっぺたの裏側や喉に引っかかったような感じになる。その違和感を詠んだ。龍眼を食べなれない人にはわからない感覚だろうが、俳句とは元々そういうものだから、わからなくても、♪どーだっていいぜ、問題はなああああし!


龍眼のタネ味なきをしゃぶリおる では太


竜眼の実の部分は、薄くて、あんまり量がないので、食べ終わった後も、物足りない気持ちで残った種をいつまでも舐めていることがある。口寂しいのである。別のを剥いて食べればいいようなものだが、それも何だか億劫で、種を吐き出さずに口に含んでいる。ちょうど、「小梅だより」くらいのサイズとつるつる感がいいのだが、甘くはないので味気ない。そういう感覚を詠んでみた。


龍眼の種嚥下せる喉仏 万斛

  添削 龍眼の種のみこんだ喉仏 では太


そして、そうやって種を舐めていると、間違って飲み込んでしまうことがある。あの、種が喉を通る時の気持ち悪い感じ、飲み込んでしまった時の「やっちゃたあ」という失敗感覚、飲み込んだことのない人には分からないだろうな。が、ま、


♪どーだっていいぜ、問題はなああああし!


最初、あえて「嚥下せる」・・・と難しい言葉を使うことで、種を呑み込んでしまう間抜けさとのギャップをユーモアにしようと狙ったが、あんまりうまく行っていないようなので、口語体に添削した。口語体の時は「では太」という俳号を使うことにしている。


ではでは


<了>



◼️今日の一句〜バナナ、パイナップル(鳳梨)


親戚がくれたバナナと庭で摘んだ花
親戚がくれたバナナと庭で摘んだ花

▪️バナナ


「あ、やばい」と薬飲むかに食うバナナ では太

忘れられ腐りて黒きバナナかな 万斛


一句目は、ちょっと胸の辺りが痒くなり始め、低血糖を抑えるために慌ててバナナを食べる・・・という糖尿病あるある。二つ目は、バナナを食べずにおいたら、黒ずんできて食べる気を無くしてしまった・・・というバナナあるある。こちらも季節感はおろか、熱帯のイメージすら何もない。バナナが、あまりにも身近な、当たり前の存在になりすぎて、俳句的な感懐が生じないオールシーズン、オールプレイスな果物になってしまったからだ。


と、言い訳しているが、虚子歳時期の例句は以下、


バナナ買ふほどの馬来語覚えけり 三堂


こちらは、屋台で買うバナナのイメージでうまく南洋の雰囲気を出している。こういう手もあるわけだ。戦前の句だから、屋台というよりも、地べたにゴザでも敷いて、その上に野菜、果物をさまざま置いて売っている感じかな?しかし、一世紀ほど経った現在のタイでは、バナナを野外で売っているイメージはあまりない。痛みやすいからだろう。


バンコクの冷房の効いたスーパーでバナナを買う時、日本にいる時と違った感懐はないのである。だから観光客などは、あえてバナナを買うことは少ないのではないか?食べるなら、マンゴーとかパパイヤとかココナッツ(ジュース)とか、トロピカル感のあるものだろう。そこで、一句ひねり出すと・・・


「タイに来てバナナなんて」と素通りす では太


熱帯に住んでいる以上、バナナが生えているところも詠まねばならないのだろう。自分の住んでいる村では、庭にバナナを植えていない家はほどんどない。自分のところも、家を新しくする前はバナナの木があった。


バナナの木とっ散らかってお辞儀する では太


バナナの木の枝は、上にも下にも乱雑に生えていて、下向きのやつは力なくだらりとしている、その感じをそのまま詠んだ。始めは「とっ散らかって萎えている」としていたのを「とっ散らかってお辞儀する」とした。その方が可愛らしい感じになる・・・かな?


ちなみに、ChatGPTによれば、植物学的に見ると、バナナは「木」ではなく多年生の大型草本だそうだ。木質化せず年輪ができないものは木ではないのである。成長も早く、同じく多年生大型草本であるパパイヤなどは、昨年植えたものが、今、背丈2.5メートルくらい、一年も立たずに実をつけ始めた。その分、風雨に弱く、バナナもパパイヤも、すぐ折れたり、倒れたりしてしまうのが玉に瑕である。


実の感じも、食感も似ているマンゴーの方は、正真正銘の「木」であって、成長して実をつけ始めるのに5、6年かかる。だから、うちのお義母さんなどは、パパイヤが倒れてダメになっても平然としているが、マンゴーが折れると残念そうにするのである。



▪️パイナップル(鳳梨)


こちらもかなり身近になった南洋の果物だが、バナナほどではないかな。自分の子供の頃は、パイナップルの缶詰は病気になったら食べさせてもらえるもので、生パイナップルは大人になるまで食べたことがなかったような・・・。ここで一句、


パイナップル缶の冷き汁や病癒ゆ 万斛


いや、親戚の結婚式かなんかで子供の頃、食べたような気もしてきた。


高畑勲の「おもひでぽろぽろ」で、どこぞから生パイナップルが届き、家族みんなでワクワクしながら食べてみると、案外、美味しくなくて、一同失望するというシーンがあるが、初めて食べた自分の感想もそうだったと思う。(後知恵で言うと、パイナップルは熟れどきを見定めることが重要なのである。)


でも、この句には南洋のイメージは全くなく、熱帯季題の句でないとすれば、季語のない、掟破りの俳句になってしまう。


虚子歳時記の例句は、


日章旗や鳳梨熟す小学校 雨城


これは、日の丸と鳳梨(パイナップル、「ほうり」と読む)のコントラストを狙った非定型句。全体では十七字で収めている。今まで読んできた虚子歳時記の熱帯季題句の中で、一番、南進肯定的、植民地讃歌的な傾向の強い句のように思う。(もしかしたら、バンコク日本人学校の光景を詠んだのかもしれないが・・・。)パイナップルを南洋エキゾチズムのシンボルとして使い、それに、高々と翻る日章旗を対置させているわけだから。


戦後80年も経って、日本の「南進」に罪悪感を持つ必要も感じないが、「そういう時代もあったんだなあ」という感慨はある。一方、この句の意気揚々としたポジティブな雰囲気は悪くないとも思うのだ。


話は変わるが、パイナップルの栽培は意外と簡単らしい。挿し穂、鉢植えで、日本でも結構育つようだから、タイならもっと簡単だろう。やってみようかな(笑)そこで一句、


パイナップルごろりごろりと熟す庭 万斛


みたいになると楽しい。


と、このように、今では、日本人の植民地的覇気はすっかり影を潜め、パイナップルは南洋に逼塞する老人の暇人的興味を呼び起こすに過ぎないのだから、かつての日本人の所業を一身に引き受けて反省する必要などないのだ。


先ほど、バナナは屋台では売ってないと書いたが、屋台で売る果物の代表選手はパイナップルと青マンゴーだろう。パイナップルは、サイコロ切りにしたものをビニールに入れてくれるので、それを竹串に突き刺して、唐辛子と砂糖をを混ぜた薬味にちびちびつけながら食べる。自分の印象では、こういうものを食べるのは女性であり、特に青マンゴー(こちらはりんご切りにする)は女の人しか食べているのを見たことがない。


パイナップル唐辛子つけて喰う女 では太


どうしてもあの砂糖と唐辛子の奇妙な取り合わせを入れたければ、


パイナップルの薬味は砂糖唐辛子 では太


ではでは


<了>



◼️今日の一句〜「椰子」「檳榔樹」


エアダンサーのごと檳榔樹狂騒す 万斛
エアダンサーのごと檳榔樹狂騒す 万斛

2026年3月21日


▪️椰子


椰子殻をカスタネットの舞踏団 万斛


ヤシとヤシの殻は違うと言われるかな。カンボジアの伝統舞踊で「ココナッツダンス」というのがある。芸術学校の子どもたちが最初に教わる演目のようで、椰子の殻をカスタネットのように打ち鳴らながら踊る可愛らしいダンスである。以下映像。YouTubeから。



この動画では、比較的年嵩のティーンエイジャーが踊っているが、自分が最初に見たのは、帰還難民のダンスグループの子供だちが踊るココナッツダンスだった。1992年か93年ごろか。だから、ココナッツダンスには「子供達のダンス」のイメージが強いが、先ほど、YouTubeで映像をいくつか見てみると、「恋愛適齢期の男女が踊るフォークダンス」という方が相応しいのかもしれない。


自分が見たものには、2本の竹の棒の上をゴム飛びのように飛ぶパートがあったと思うが、YouTube の動画中には見つからなかった。もしかしたら、あの振り付けは、難民舞踏団の独創だったのかもしれない。


「椰子の実」を口ずさみおる椰子の浜 万斛

 添削「椰子の実」を口ずさみおり砂に椰子 万斛


かっこ付きの「椰子の実」は島崎藤村作詞大中寅二作曲の唱歌のこと。若い人は知らないだろう。「二十四の瞳」で、女子生徒の一人が、連絡船の欄干にもたれながら朗々と歌うシーンが有名だが、映画は自分が生まれる前に公開されたもので(1954年)、自分は、この映画を、銀座にあった並木座という名画座で見た。(その並木座も今はないらしい。)


こういう文学史的エピソードもある。柳田國男が愛知県の伊良湖岬で浜辺に漂着した椰子の実を見つけた。その話を藤村に話すと、藤村はそこからインスピレーションを得て詩を書き、後に、それが唱歌「椰子の実」になった。柳田は同じ体験から「日本人南洋起源説」を発想し、後年、「海上の道」というエッセイを書いた。


自分はこの話を、中学生くらいの時、「日本史こぼれ話」の文庫本で読んだ気がする。が、ちゃんと覚えてなくて、島崎藤村と柳田國男が一緒に椰子の実を見たと記憶していた。自信がなかったのでChatGPTに聞くと、正しい逸話を教えてくれた。椰子は、もう少し南の方に流れ着いたのかと思っていたが、愛知県だったのだ。これも意外だった。


「椰子の実」という唱歌を知らない人には分からない句だろう。世代的な「共通感覚の壁」があるわけだが、俳句とはそういうものだから仕方ない。



▪️檳榔樹


檳榔の赤黒き歯の老婆逝く 万斛


檳榔樹を季語に以前作った俳句、檳榔の赤点々と老婆逝く を添削してみた。


タイの田舎では、檳榔の実を乾燥させてキンマの葉っぱに包んで噛む習慣がある。清涼感をもたらす嗜好品だそうだが、唾や口内が赤くなり健康にも良くないので、今は、年寄りしか嗜まない。そこら中に赤い唾を吐き散らすのが汚らしく、自分は、これを嗜む人を正視できないのだが、赤い唾の跡を踏みそうになって「うわ、汚な」と思うことは何回もあった。


自分はこの習慣に嫌悪感しか感じないのだが、イ人であるかみさんや娘などは、キンマを噛む人に何がしかの懐かしを感じるのかもしれない。自分的に解釈すれば、例えば、下の句のような、厭悪の気持ちを伴う懐かしさである。


近鉄センター老人臭みかん湿布 では太


一応、俳句である。自由律とすればなんでも俳句になるのだ(笑)


時々、祖父に、老人会の集まりに連れて行かれた。その時の、退屈で楽しくない印象を句にしている。人生の味気なさを始めて思い知らされた瞬間かもしれない。しかし、それは、祖父母にまつわる、なんだか懐かしい思い出でもあるのである。


近鉄センターという娯楽施設はまだあるのかもしれないが(近鉄デパートは、少し前、ギフトカタログで話題になつて健在ぶりを示していた)、檳榔を噛む習慣は今の年寄り世代がこの世からいなくなると死滅するだろう。マリファナも合法化されたことだし、新しい悪習を手に入れた若い世代は、この古い世代の悪臭に見向きもしないと思う。


※現実は、昨年来のマリファナ規制の動きが強化され、マリファナ産業は大打撃を受け、この頃すでに、誰もが気軽にマリファナを吸えるという状況ではなくなっていた。田舎でうかうか暮らしていたから、結構な大ニュースなのに見落としていたのだ。


脱線した。


檳榔の句の話に戻ると、「赤点々と」が吐き出した唾であることが分かりにくいかもしれないので、「赤黒き歯」に添削した。どちらにしても、檳榔を噛む様子を見たことがない人には伝わらないのだが、俳句とはそういうものだから仕方ない。添削するのが自分なのだから、それで良くなっているのかどうかも分からない。


ちなみに虚子歳時記の例句は、


檳榔子嚙みゐて踊はじまらず 未曾二


村祭りか何かで踊りを披露するはずの踊り子が、檳榔を噛みながらぐだぐだぐだぐだしていて、一向に始めようとしない。そういう熱帯の、ダラーっと怠惰な、よく言えば?アンニュイな雰囲気をうまく出している。いやー、自分の句とはレベルが違いますな。


もう一つ、


エアダンサーのごと檳榔樹狂奔す 万斛


エアダンサーとはマンションとか自動車のショールームの前で、ひらひらクネクネ踊っている高さ3、4メートルくらいの空気人形のこと。よく見かけるが名前を知らなかったのでネットで調べたらこの名前が出てきた。スカイダンサーともいうらしい。格好は良くはないが、アイキャッチにはなるようで、バンコクでも地方都市でもこれを良く見かける。


ショールームの典型的賑やかしとしては、他に、プロジェクト名を書いた大きな旗を、アルバイトの人間3、4人に延々と振らせる・・・というのがある。かなり高齢の女性が重そうに振っていることが多いので、痛々しいイメージになるが、タイ人はそう感じないのだろうか?感じていれば広告として逆効果になるような気もする。


「エアダンサーをレンタルするより安くつく」というだけの理由でやらされているシーシュポス的苦役、究極の単純奴隷労働だが、当人たちは「こんなことで日当がもらえるならチョロいもんだ」と喜んでやっているのかもしれない。何せ旗を延々と振り続けるだけ、なんの技能も工夫も身体能力もいらない純単純労働なのだ。あ、また話が脱線した。


エアダンサーという言葉がわかりにくいかなと思ったが、名前がそのまま実物の説明になっている感じなので使ってみた。スカイダンサーだとこの効果は生まれない。冒頭の写真は、嵐が来る前の檳榔の木。暴風雨が本格的になると、檳榔樹は、エアダンサーのようなはちゃめちゃな踊りを始めるのである。


上の写真、檳榔樹なのかココ椰子なのか分からなかったので、Googleの画像検索にかけてみた。そこで「ココヤシではなく檳榔樹」というお墨付きを得て掲載した。檳榔樹はココヤシより幹が細く、葉っぱの形がゲジゲジしていて、数も少なく、全体に疎(まばら)なのだそうだ。30年タイに住んでいてそんな事も知らなかったことに愕然とする。


<了>



◼️今日の一句〜「象」「鰐」「水牛」


2026年3月24日



▪️


朝起きて門を開けたら象がいた では太


ブリラムに引っ越してすぐ、朝起きたら門の前に像がいた。それが上の動画。象は散々見てきたが、こんなにカジュアルな感じで、朝起きたらいるというのは新鮮だった。と言っても始終こんなことがあるわけではなく、村の寺の本堂が建立される大イベントに呼ばれて来た象だったのである。


スーリン県タークラーン村の「象の村」から来たのかと聞くと、別の村からだという。地元にああいうツーリストスポットがないので、こうやって出稼ぎをするのだと答えている。ちょっとした芸をやってもらったので、ご祝儀を渡そうと思っていたら、そそくさと寺の方に向かって去っていった。悪いことをした。


俳句は単なる日記。動画を見ればわかるが、門を開ける前から象は見えていたのだが、門を開けたらそこにいたことにして、少し句に動きをつけてみた。しかし、日記の文章に過ぎないことに変わりはない。


モロコシを喉いっぱいに乞食象 では太

物乞いの象王都の草を喰みにけり 万斛


自分がタイに赴任して間もない頃、バンコクを徘徊する象の増加が問題視されたことがある。30年くらい前か。象は1日に食べる餌の量が半端ではなく、収入が途絶えれば、買主はたちまち餌代に困ることになる。だから、仕事がなくなると、象使いたちは、バンコクに象を連れてきて、モロコシやサトウキビ、バナナなど、象を珍しがる都会人に手ずから餌を与えさせ、餌代としてチップをもらって日銭を稼ぐのである。


中には、持ち主に捨てられる象まで出てきて、タイマスコミから「野良象」などと呼ばれ気の毒がられたものだ。その後、バンコク市内に象を連れてくることを禁止する条例ができて、出稼ぎに来る象は減ったように思う。それでもバンコクの郊外や地方都市に行くと、餌代をねだる象と象使いを時折見かけたものだ。俳句では、そういう、ちょっと情けない象たちの姿を詠んでみた。


モロコシはトウモロコシと名前や姿は似ているが、学術的にはコーリャンと同じグループに属する植物らしい。象が好む、と、どこかにあったので、語呂がいいこともあり、俳句に使った。実際、バンコクで自分がよく見たのは、サトウキビやバナナの餌である。象がものを食べる時、鼻で掴んで喉の奥に押し込むような感じになる。それを「口いっぱい」ではなく「喉いっぱい」とした。この描写だけが取り柄か?


二つ目は、王都とは言っても、そこから遠く離れたバンコクの場末、郊外で、開発を待つ草ぼうぼうの空き地に、象使いとともに野宿する象の姿を呼んでみた。これは確か、そういう光景をどこかで見たような気がしている。どこだったか思い出せないが。



▪️

ワニのショー見て養殖のワニを食う では太

養殖のワニ食いシャムのワニのショー では太←こちらを採用


ChatGPTに二つのうちどちらがいいか意見を求めたら、最初の方が、時系列が明確でわかりやすくていいという話だった。自分が、後の方がまだマシと考えて強引に説得すると、例によってすぐ折れてきた。ChatGPTは、こちらが弱く出ると、調子に乗ってハルシネーションを全面展開するが、断定調で決めつけると迎合してくる。


こちらの説得のポイントとしては、シャム(タイの古名)という場所の情報が’つけ加わっていること、「ワニ」の繰り返しと、「シャムのショー」と頭韻を踏むことでリズムが良くなっていることを指摘した。なんのことはない、こちらもいい加減な論拠で強引に捲し立てただけなのだ。


しかし、肉を食った後に、その動物のショーを見るというのは、かなり、珍しい体験ではないか。イルカの肉を食べた後、イルカのショーを見るんなんてあり得ないだろう。


タイに生息する野生のワニの中には希少動物扱いされているものもあるが、人工繁殖や飼育は簡単で、養殖物のワニは食べてもいいのである。ある程度大きくなるまで、一般農家に委託飼育させるから、農家の良い副収入になっている。そのせいで、大きな洪水があるたびに、ワニが養殖場から逃げ出したことがニュースになるのである。



▪️水牛


水牛の糞ポタポタとついていく では太

水牛の尻草で打つ男児かな 万斛




一句目、水牛が歩きグソをしている様を詠んだ。田舎の舗装道路を電動自転車で走っていると、水牛のうんちがところどころに固まってスピードバンプ化していて、注意して回避しないと、大きくジャンプしてお尻が痛いし、故障の原因にもなる。乾季は特にそうだ。また、車が水牛に衝突する事故も結構あるようで、「水牛、牛」に注意の絵看板、標識が水牛が横断しそうな場所に立っている。




「ついていく」がちょっとわかりにくいかもしれないが、クソは当然、水牛についていくのである。


二句目は、小さな男の子が巨大な水牛に乗っている、墨絵のような光景をイメージして詠んだ。実際、子供が跨って乗っているのは見たことがなく、小学校高学年くらいの男の子が、草や木の枝で水牛の大きな尻をぴしゃぴしゃやりながら、群れについて歩いている。その現実の光景の方を詠んで見た。最初、墨絵の印象に引きづられて、「幼児かな」としたが、「流石に幼児は不自然かな」と思い直して「男児かな」に変えた。


あるいは、もう一つ情報を加えて、


水牛のしり草で打つイサンの子 万斛



▪️虚子歳時記の例句は以下、


象・バス行きて道きはまれば象に乗る 颯爽子

水牛・市中を水牛ありく夕立かな 圭児

鰐・王宮は鰐住む水に臨みけり 友次郎


と、こちらはみな、格調高い。物乞い象、ワニ肉のゲテモノ喰い、水牛の糞をネタにする自分とはレベルが違う。詠んでいて気持ちが良くなる句である。


特に、最後の句は、当時は珍しかった(戦前の句である)シャム旅行に興奮して、ガイドから聞いた話を、誇張した旅の自慢話のような味付けで句にしている、その感じが面白くて、自分は一番好きである。象の句はちょっと日記の文章風で、夏井先生ならダメ出しするかもしれないが、戦前の歌として読むと、これも、新しい体験した詠み手の興奮が垣間見えて悪くない。今なら、何のことはない観光ツアーの話になってしまうが。


真ん中の句は、市中を、「まちなか」と読ませるのか、「いちなか」とでも読ませるのか、わからない。まあ、「まちなか」でも「いちなか」でもそれぞれ情景は浮かぶ、気持ちの良い句ではある。熱暑の1日の夕方、スコールをシャワーのように浴びて、水牛はさも気持ちよさそうに歩いているのだろう。


<了>



◼️今日の一句〜「鱶」「極楽鳥」「熱帯魚」


美ら海水族館の大水槽

2026年4月2日(木)


▪️鱶(ふか)


虚子編集の昭和15年版歳時記には、例句は掲載されていない。現実の体験を基礎に、読み手に共通イメージを喚起させる俳句では、当時、フカのイメージを提示することが難しかったのだろう。今は、テレビがあるし、ネットがあるし、「ジョーズ」などというホラーショッカーの名作もある。下の句もメディアを通じての間接情報で作った


鱶掛かりヒレ切ってのち水葬す では太


かなり前に、遠洋に出た日本の漁船が、網にかかったサメの鰭だけ切り取って海に捨てているというニュースを見た。その印象をそのまま書いた。工夫したのは、海に捨てたのを、ちょっと皮肉っぽく「水葬す」と表現したことくらい。


下は、YouTubeで見た沖縄美ら海水族館のイメージを句にした。人の背丈の5、6倍はある大水槽を大ロングで撮った映像が素晴らしかった。水槽のすぐ手前で見ている人の視界を想像して作った。冒頭に埋め込んだ動画がそれ。


大水槽大鱶ゆるり横切れり 万斛

 添削 人頭を鱶ゆうるりと横切れり 万斛


スキューバーダイビングをしている人の視点から作ると下のような句になる。今なら、そういう映像も、いろんな媒体で見れるのである。


大鱶の背鰭ゆらりと横切れり 万斛


あ、そんなに近づけば食われてしまうか?まあ、近くまで撮った水中映像も見たことがあるし、どういうシチュエーションかは、読み手に勝手に想像して貰えばいい。水族館の大水槽を見ている場合でも、背鰭の方に「意識がクローズアップ」することはあるだろう。プロの水中カメラマンが海中に下ろした檻から撮影しているイメージでもいい。



▪️極楽鳥


極楽鳥ホログラムする檻の中 では太


極楽鳥もネットでしか見たことがない。ホログラムとは、光が当たる角度によって色が変わるテクノロジー。「ホログラムかに」みたいな直喩表現にしないで「ホログラムする」としたことがちょっとした工夫。砕けた調子なので俳号は「では太」とした。


極楽鳥ドリトル先生航海記 では太


これは、極楽鳥という名前を聞いた途端に浮かんだ本の名前。この児童読み物に「極楽鳥」が本当に出てきたか自信がなかったので、ChatGPTに聞いてみると、ニュースソース付きで「あります」と答えてくれた。ソースのアドレスで確認すると The Purple Bird of Pradise という名前で登場していた。



子供の頃読んだ本の内容が潜在的記憶として残っていたのだ。もしかしたら、そういう人も、同世代では多いのではないかと思って、そのままを句にした。



▪️熱帯魚


熱帯魚売る市や人むせかえる 万斛


これは実体験。バンコク市内のウィークエンドマーケットの雰囲気を詠んだ。ここは、違法の希少動物なども扱う、怪しい動物市場が有名である。名前通りの週末だけではなく、平日も空いているが、土日は特に人でごった返して歩くのも大変な混雑。


熱帯魚死人の目して泳ぎおる 万斛

 添削 熱帯魚煌々として死人(しびと)の目


これは単なる描写の句。煌々と照らされた水槽の中を、極彩色の熱帯魚が、瞳孔の開いた死人の目をして泳いでいる、そのコントラストを詠んだつもり。


この季題には例句があった。


玻璃の外の虫狙ひやまず熱帯魚 尤華


瑠璃はガラスの古名。水槽の壁に張り付いた虫を、水槽の中から熱帯魚が狙い続けている、その静かな緊張感。さすがにうまい写生句だ。実際に見た光景でないと、こういう句にはならないなあ、と感嘆した。


ちなみに、瑠璃は、唱歌「埴生の宿」の歌詞にある「瑠璃の床も羨まじ」の瑠璃である。七宝の一つの青い玉石のこと。良いですなあ、こういう古風の言葉は。唱歌好きの自分には懐かしい言葉。


※あ、玻璃を瑠璃と読み間違えていた。


<了>



◼️今日の一句〜「火焔樹」「無憂華」「鳳凰樹」


火焔樹もしくは鳳凰樹
火焔樹もしくは鳳凰樹

▪️火焔樹


火焔樹のしたロティまつ少女おり 万斛


写真の火焔樹(もしくは鳳凰樹)は街道沿いにあるスーパーの駐車場にあるものを撮ったのだが、その木の下に、アイスコーヒーを売る屋台がある。最近タイで流行りの、クスクスの白玉が入ったやつ。プラスチックコップの蓋をラミネートして、そこに太めのストローを突き刺して飲む。売っているのが、中学を卒業したばかりのような若い女の子で、この娘は、こんなところで日がな一日暮らして、若い時間を無為に過ごしていくのか・・・と感慨深く眺めている。余計なお世話だが(笑)


アイスコーヒーだと熱帯ぽくないので、ロティの屋台にして。ロティが焼けるのを、火焔樹の木陰で、女の子が待っている・・・そういう一枚の絵にしてみた。


虚子歳時記の例句は以下、


火焔樹の花と教へて手を翳す 楠窓


南洋住まいらしき作者が、日本から来た客に、「あれが火焔樹」と指差しながら教えて、日差しの強烈さに思わずその手を額にかざす・・・そういう瞬間を切り取っている。熱帯の光の強さが、網膜の微かな痛みと共に伝ってくるようだ。流石にうまい。



▪️無憂華


無憂華の影静まれる鋪石かな 万斛


無憂華の影が敷石にさして、風で花が揺れるにつれて、影も揺れている。くっきりと舗石に映ったその影が、風が止んでふと静止する、その瞬間を詠んでみた。


例句は、


無憂樹の華のかげりて蜂も去る 苦参


釈迦の母親マヤが、出産のために実家に戻る途中、ルンピニの園を訪れたとき、ある花の美しさに思わず手を伸ばすと、その脇の下から釈迦が生まれた。なんの苦痛もない誕生であったため、無憂華の名が付いた。そういう仏伝がある。時間がゆったりと流れて、何かの存在が終わりを迎える。そんな感じが心地よい。極楽浄土に咲く花のイメージかな。



▪️鳳凰樹


家族写真の後景にあり鳳凰樹 万斛




上は、家族で毎年行っていた、サメット島で撮影した鳳凰樹。実際のところ、家族写真の背景にあるのは、島の名の由来となったサメットの木なのだが、季題が鳳凰樹なので、鳳凰樹に変えて作った。


白状すると、自分は、この写真が鳳凰樹なのか火焔樹なのかわからない。最初の写真にしてもそうなのだ。タイ語の呼称では、両者は混同されて、どちらの花もドークハーンノックユーン(孔雀の尾の花)と呼ばれる。だから、自分にとっての花の名前の権威であるかみさんは、どちらも「孔雀の尾の花」だと答えるが、多分、間違っているのだと思う。


句例は、


夕凪や花落ちつゞく鳳凰樹 すなほ


風もないのに、鳳凰樹の花が、散り続けている、ちょっと不思議な風景。「静心なく花の散るらん」というのではなく、花は絶えることもなく、ひたすら落ち続けているイメージ。これも極楽浄土に咲いている花かな。そうでないとしても、一瞬、そう風に思わせる光景にであって、この句を詠んだということだろう


<了>



◼️今日の一句〜「宝冠木」「ゴム」「ガジマロ」


ガジマルではなくレインツリー
ガジマルではなくレインツリー

▪️宝冠木


沙弥僧の掃く手止まりて宝冠木 万斛


沙弥とは見習い僧のこと。沙弥とという言葉の中に、僧という意味が含まれているのだが、難しい言葉だし、字数を整えるために僧を加えた。句は、これといったアイデアもない、類想句。境内を掃いていた少年僧が、ふと手を止めて宝冠木の花を見上げた・・・というありがちな情景。無理やりタイっぽくするために・・・


サマネーンの掃く手止まりて宝冠木 万斛


にしようかな。


虚子歳時記に例句はなし。当時、結構、イメージの湧きにくい花だったのではないか?自分も映像が浮かばないので、どういう花なのかネット検索で調べた。小さな赤い花が、だんご状に丸まっている、あんまりパッとしない花。一見して「宝冠」というイメージとはならなかった。



▪️ゴム


ゴムの木は、老木化して樹液が出なくなると、家具の材料として使われれる。重さは中程度(黒檀を一とすると0.5くらい、松や欅よりは重い)で、丸太も直径25ー30センチ程度と細いが、集積材として組み合わせて使われるので、家具はずしりと重い質感がある。


と、Google のGemini が言っていた。自分も、パラゴム製の家具は「クソ重くて、動かすのが大変」というイメージがある。チークなどと違って高価ではないので、タイ人の、ごく普通の家庭にあるもの、という印象もある。


運ぶのが大変なので、引越しして新居に移る時には、置いておかれることが多いのではないか?・・・と、そういう想像をして句を作ってみた。タイ人には否定されるかもしれない。


ゴムの木のテーブル黒き空き家かな では太

ゴムの木のテーブル置きさられ廃屋 万斛


パラゴムの古テーブルにピーがおる では太


ピーとは、タイ人が恐れ慄く「精霊」、平たくいえば「妖怪」「お化け」のこと


虚子歳時記の例句は


ゴム落葉踏んで案内や四迷の碑 敬三


二葉亭四迷の碑が南洋にあるわけもない。熱帯季題なのに、日本の風物を読んでいるのだから、反則ではないか?句自体もあんまり感心しない。おそらく、熱帯を旅したことのない人が詠んだ句だろう。



▪️ガジマル(榕樹)


カジマルを投票場所と定めたり 万斛


これは、実際に見た情景を詠んだ。と言っても、ガジマルではなく、同じように枝を大きく横に張って木陰を作るレインツリーを想起して呼んだ。レインツリーの木のすぐ向かいにある村の寄り合い場所が、選挙の投票場所になっているのである。


冒頭に挙げた写真がそれ。別に衆議一決したところに立ち会ったわけではないが、自分にはそのレインツリーが、村落民主主義の象徴のようなイメージがあるのだ。牧歌的な句になったが、この村落民主主義は、結構生臭くもあるのである。



ガジマルの根に閉ざされて涅槃かな 万斛


アユタヤにある有名なツーリストスポットのこと。ガジュマルの根に包まれれて、仏像の顔が観念したように目を瞑っている、観光写真でよく見るあれである。「アユタヤ県マハータット寺にて」とでも注釈をつけた方が分かりやすいかもしれない。


例句は、


かじまるの上と下との猫の声 白山


猫というのは、木登りが得意で、庭にある6、7メートルのマンゴーの木など、瞬く間に駆け上がってしまう。それがガジマルの木だったら、随分、登り甲斐があるだろう。あるいは、木の上と下で、求愛の鳴き声を交わし続ける猫たちを歌っているのかも。素朴で愛すべき写生句、というか、写音句。


<了>



◼️今日の一句~「クロトン」「月下美人」「ブーゲンビリア」


ブーゲンビリア
ブーゲンビリア

▪️クロトン(例句なし)


クロトンは日本語で変容木(ヘンヨウボク)。さまざまに色を変えることからこう呼ばれる。熱帯原産。日本では観葉植物として人気があるのだそうだ。タイでもよく見かけるが、雑に扱われている印象がある。うちの庭にも鉢植えがあるが、半分枯れかけている大ぶりの葉っぱに、毎日、惰性的に水をかけている。


昭和15年発行の虚子歳時記には例句が掲載されていない。やはり印象に残らない植物なのだろう。今のように、ネットで写真や動画を探すこともできない。自分も、この植物に関して、特に記憶に何かあるわけではないので、地味な路地裏の草、蔑ろにされて茶色に変色した鉢植えのイメージで、無理やり作ってみた。


ロトンに小便どぼとあたり跳ね では太


その辺りの空き地に生えているクロトンに立ちションベンをしている図。最初の一撃は、ドボっとかかり、次に飛び跳ねるので、慌てて後退りしている。卑俗な写生句だが、なんとなく感じがわかるという人は多いのではないか?最も、最近のタイは、そこらじゅうに監視カメラがあるので、おちおち立ち小便もできないのであるが。


ペラペラの石鹸の香や変容木(ヘンヨウボク)万斛


こちらは、学校の水飲み場や家の便所の側に、無造作に置かれている鉢植えのクロトン。手元には蛇口から垂れ下がった網入りの固形石鹸、もしくは、トイレの石鹸ケースに置かれた安物の黄色い石鹸がある。どちらも、すり減って、ペラペラになって、香りもあまりしなくなっている。ふと向こうに目を向けると、そこには枯れかけて忘れられたクロトンが、しょんぼりと立っている。パッとしなものを取り合わせた、パッとしない俳句。


▪️月下美人


写真を見ると、白いレース地のように透ける花弁が、四方に広がって、ちょっと「エーゲ海に捧ぐ」のジュディ・オングを思わせる花である(笑)昭和のホステスさんっぽい。開花期に、一晩かけて咲き、朝になると萎んでいる。そういうことを、一定の間隔を空けて、二、三度繰り返す花らしい。


実物は見たことがない。ホテルオークラの前あたりで、似たような白い花を見かけたことがあるが昼間だった。虚子歳時記の例句は以下。


団欒に月下美人の咲きすゝむ 岬人


家族や親しい人々の宴の夜、月下美人が次第に開花していく。日常の中にある特別な瞬間、幸福が穏やかに静かに最高潮へ向かう時間の流れを詠んだ、ゴージャスな句。熱帯季題の例句の中で一番好きかもしれない。


以下は、自分の句。例句の翌日を詠んでみた。


翌朝の月下美人は見ずに出立つ 万斛


宴は歓送会だったのだろう。翌朝、楽しい時間は終わり、月下美人はしぼんでしまい、次の開花の時間、次のお楽しみまで待機することになった。自分も、気分を変えて、新しい現実に旅立たねばならない。「出立す」決然と行きたいところだが、億劫だ、あーヤダヤダ。



▪️筏葛(ブーゲンベリア)


これも虚子歳時記の例句を先に挙げる


夜霧とぶ筏蔓の花の門 今城


垣根に植えられた筏蔓(いかだかずら、と読ませる)の前を、門燈に照らされた夜霧が飛び交っている。日常にある普通の光景をことさら劇的に描いて、一人で悦に行っている句である。こういうのが俳句の楽しみ方なのだな。


ということで、自分は、日常劇化ホラー編として劇的にしてみた。


廃屋の筏蔓の赤禍し 万斛


ブーゲンビリアの花が好きで見かけたら写真を撮っているのだが、Shopeeで種を注文して撒こうとすると、かみさんからストップがかかった。ブーゲンビリアは家族に不幸をもたらすからダメなのだという。ネットで調べて見ると、これはイサーンの言い伝えのようで、華僑系タイ人の間では、その強靭な生命力を多として、縁起の良い花とされているそうだ。


そのことを話して、家の外縁、塀のところならOKだろうと談判してみたら、撒いてもいいが、花が咲いても、お義母さん(迷信好きなのだ)が抜いてしまうだろうという。彼女は迷信深いのだ。


諦めてしまい、種もどこかに行ってしまった。お寺の境内などには普通に咲いていて、街道沿い(村のメインストリート)のある家なども垣根にブーゲンビリアを植えて、今、満開に、真っ赤に咲き誇っているのだが・・・泣く子とババアには勝てん(笑)


説明が長くなったが、上の句は、その「筏蔓の家」を読んだもの。街道沿いにはクメール系の住民が多いので、迷信のあり方も、ラオス系のイサン人とは違うのかもしれない。しかし、そう言われて見ると、真っ赤になったその家の前庭が、不吉にも見えてきた。「火宅」という印象にもなる。そこで「赤禍し」としたわけだが、我ながら、あまりにも説明的すぎる。ChatGPTに批評させてみても同じ意見だった。そこで少し捻って、


廃屋の筏蔓や猫動く 万斛


としてみたら、AIの評価はこちら方が高かったのである。AIを馬鹿にしてはいけない。俳句の実作や添削は全然ダメだが、批評はかなり正確にできるのだ。星新一賞に入選した3作のうち2作はAIの作品だったほどだ。ショートショートならロジックと既存作品の要素の組み合わせで作れるのである。ちなみに、AIによる批評を引用して見ると・・・


廃屋の筏蔓や猫動くこちらは具体の景で押す句です。「や」で切って、静止した荒廃の中に「猫動く」というわずかな動きを置くことで、不気味さや気配が自然に立ち上がる。説明も評価語もない分、読者に任せる余白があり、俳句としては素直で強い。


廃屋の筏蔓の赤禍し一方は「禍し」で印象をまとめる句。赤をどう感じるかを作者が提示しているので、方向は明確ですが、その分、読みはやや一方向に収まりやすい。雰囲気は出るが、少し観念寄り。


まとめると、前者=具体+動きで不気味さを立ち上げる句(より俳句的)後者=色と評価語で雰囲気を規定する句(やや説明的)


AIが、俳句の賞を受賞するようになる日も、そう遠くないだろう。


もう一句、こちらは、追想的、メロドラマ的に劇化してみた。


ブーゲンビリア離散せる日の垣根かな 万斛


ブーゲンビリアを見て、家を出た日を思い出しているのですな。そして今、こういう感じで生きている。




名曲!


高浜虚子編の歳時記(昭和15年刊)にあった「熱帯季題」での俳句作りは、これで全て終了。これからは、自分勝手に「熱帯季題」認定して、俳句を作っていくことにする。


ちなみに貧句は貧苦をかけている(笑)俳句ほど元手のかからない趣味はない。

 

貧苦して貧句を詠めば熱帯の

 汗ダラダラと胸を流れる では太

 

お粗末様でした!


ではでは


<了>

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