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【再掲】ラジオドラマ「佐八のはなし」(黒澤明「赤ひげ」より

  • somsak7777
  • 2025年12月29日
  • 読了時間: 5分


黒澤映画「赤ひげ」の「佐八とおなか」のエピソード、山崎努の語りがあまりに見事なので、音声だけ切り取ってラジオドラマにしてみた。


一種の実験・・・というかお遊びだが、映像抜きのラジオドラマとして十分、成立していると思う。といっても、自分は映画を何度も見ているので、音を聞くと反射的に絵が浮かんてくる。もし、映画を見ていない方で、この「ラジオドラマ」を聞いた方がいれば、意見を聞かせて欲しい。背景情報なども、聞いているうちに理解できましたでしょうか?


いろんな面でお金がかかった贅沢なラジオドラマである。特に感じたのは、俳優の語り口が、声優のそれよりも、聞くものの耳に自然に入ってきやすいと言うこと。プロの声優の語りも味があって好きなのだが、やはり、デフォルメの仕方に独特の癖があり、邪魔に感じることがある。翻訳物だと、元々が別世界の異人の話しだから気にならないのだが・・・。


俳優の声を取り出しきた場合、演技という体の動きとセットで出てくる声だから、自然に聞こえるのかもしれない。アフレコだろうと言われそうだが、要は、俳優は、その演技、体の動きに応じた、自然な声を出そうと努めているわけだ。もっともこれは、名優、山崎努だから、余計にそう感じるのかもしれないが。


最近、ラジオドラマが日本で作れらているかどうか、よく知らないけれども、チョー高齢化、貧乏老人社会(これを付け加えないと来るべき世の中の実相が見えていこない)を迎える今、見直されていいメディアではないかと思う。歳をとるにつれて、字を読むことはおろか、目を意識的に使うことさえ億劫になることは「目に見えている」のである。耳は、臨終の間際まで機能しているというし、マナコは見開いていないと見えないが、音は勝手に耳の穴に入ってくる。(耳の穴かっぽじってよく聞け、というのは比喩である)


おそらく、自分なども、高齢者から後期高齢者に移行して行くにつれ、目から耳に楽しみの比重を移していくのだろう。その時、耳の娯楽は、音楽以外にも、散歩、ショッピング、ピクニック、電車、温泉巡りなどなど環境音の録音、小説や詩だけではなく様々の雑誌、新聞、情報系の単行本の朗読などが、貧者の楽しみの重要な要素になると思う。


ラジオドラマとか映画、ドラマの音声配信も「聴く楽しみ」における重要コンテンツになるに違いない。そして、重要なことは、これら音の楽しみは、「最低限度の文化的生活」を維持するためにロハで提供されるべきだということだ。その時、フリーTVに変わって、YouTube などのネットメディアが主要な役割を果たすことになる。貧困老人は、ネットで世の中と繋がることで、かろうじて「人間の体裁」を保つことができるのである。


本作に戻ると、映画の原作は山本周五郎の「赤ひげ診療譚」で、まあ、時代小説だから封建時代の、後進的な世の中の話である。その中でも、この「佐八とおなか」のエピソードは、特に封建臭が強くて、「こんな時代遅れの倒錯心理を、現代の映画が堂々と扱ってもいいものか」と若い頃見てショックを受けたものだ(笑)そのくせ、自分は、黒澤映画の中でこの映画が一番好きなのである。これほど心に残る名シーンがふんだんにある映画は他にない。


「佐八とおなか」のエピソードで言えば、例えば、「音の名シーン」として、「ほおずき市での再会で風鈴が一斉に鳴るシーン」がある。いささかベタすぎる感じもするが、風鈴の音が、混乱、動揺する二人の胸の内を表して間然するところがない。このような表現の直接性といういのは、黒澤映画の特徴の一つで、「赤ひげ」でもいくつも指摘できる。鼻につくという人もいるだろうが、自分はそういうところが好きなのである。海外で評価が高い理由の一つもそれだろう。


下がその風鈴のシーンである。




再会後しばらく大橋のあたりを歩く二人、おなかが黙って頭を下げ歩き出すと、我慢できなくなっておなかの後を追う佐八を、赤ん坊の鳴き声が押し留める。このノイズっぽく微かに入ってくる赤ん坊の泣き声は、自分は密かに、名作「ゴッドファーザー」での赤ん坊の声の使い方に影響を与えたと思っている。(ドン暗殺未遂のシーンである)


ドン暗殺未遂シーンの音については以下、


これは、ある時代の社会的抑圧に基盤を持つ、「封建的抒情」とでも言うべきものだが、自分の中に、そういうものに呼応する気分が既に存在するのだから仕方がない。端的にいって感動した。


「赤ひげ」の世評がイマイチだったのは、この「過度の封建臭」のせいだったかもしれない。ある種の批評家にとって、「おなか」は最悪の奴隷根性の持ち主、体制の矛盾をむざむざと受け入れる敗北主義者の典型だったろう。黒澤映画に封建臭はつきものだったとしても、大抵の場合、それは、正義を実現する強者の立場からのものであって、受け身な惨めたらしい存在は、映画の中で嘲罵の対象になるのが常だった。その黒澤が、封建的奴隷根性を嫋々と美化したので、元々黒澤の封建臭が気に食わない批評家が、ここぞとばかりに批判したのではないか。そうして黒澤の技術的なピークを「黒澤の衰え」とみなしたわけだ。


この映画、他にも素晴らしい効果音がいっぱいある。ほんの一例を挙げれば、オープニングで出てくる物売りの声、江戸の街を駆け巡る空っ風の音・・・これで、たちまち、映画の物語の世界に引き込まれる。こういう音を、ビデオではなく、映画館の音の大圧力の中で体験できれば、またワンランク上の経験となるのだから、この映画を、千石三百人劇場の黒澤回顧上映で見ることができた自分はラッキーだったと思う。


<了>

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