今日の一句〜熱帯季題「象」「水牛」「鰐」
- somsak7777
- 3 日前
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更新日:7 時間前
2026年3月24日
▪️象
朝起きて門を開けたら象がいた では太
ブリラムに引っ越してすぐ、朝起きたら門の前に像がいた。それが上の動画。象は散々見てきたが、こんなにカジュアルな感じで、朝起きたらいるというのは新鮮だった。と言っても始終こんなことがあるわけではなく、村の寺の本堂が建立される大イベントに呼ばれて来た象だったのである。
スーリン県タークラーン村の「象の村」から来たのかと聞くと、別の村からだという。地元にああいうツーリストスポットがないので、こうやって出稼ぎをするのだと答えている。ちょっとした芸をやってもらったので、ご祝儀を渡そうと思っていたら、そそくさと寺の方に向かって去っていった。悪いことをした。
俳句は単なる日記。動画を見ればわかるが、門を開ける前から象は見えていたのだが、門を開けたことにして、少し句に動きをつけてみた。しかし、日記の文章に過ぎないことに変わりはない。
モロコシを喉いっぱいに乞食象 では太
物乞いの象王都の草を喰みにけり 万斛
自分がタイに赴任して間もない頃、バンコクを徘徊する象の増加が問題視されたことがある。30年くらい前か。象は1日に食べる餌の量が半端ではなく、収入が途絶えれば、買主はたちまち餌代に困ることになる。だから、仕事がなくなると、象使いたちは、バンコクに象を連れてきて、モロコシやサトウキビ、バナナなど、珍しがる都会人に手ずから餌を与えさせ、餌代としてチップをもらって日銭を稼ぐのである。
中には、持ち主に捨てられる象まで出てきて、タイマスコミから「野良象」などと呼ばれ気の毒がられたものだ。確か、その後、バンコク市内に象を連れてくることを禁止する条例ができて、出稼ぎに来る象は減ったように思う。それでもバンコクの郊外や地方都市に行くと、餌代をねだる象と象使いを時折見かけたものだ。俳句では、そういう、ちょっと情けない象たちの姿を詠んでみた。
モロコシはトウモロコシと名前や姿は似ているが、学術的にはコーリャンと同じグループに属する植物らしい。象が好む、とどこかにあったので、語呂がいいこともあり、俳句に使った。実際、バンコクで自分が良く見たのは、サトウキビやバナナの餌である。象がものを食べる時、鼻で掴んで喉の奥に押し込むような感じになる。その描写だけが取り柄か?
二つ目は、王都とは言っても、そこから遠く離れたバンコクの場末、郊外で、開発を待つ草ぼうぼうの空き地に、象使いとともに野宿する象の姿を呼んでみた。これは確か、そういう光景をどこかで見たような気がしている。どこだったか思い出せないが。
▪️鰐
ワニのショー見て養殖のワニを食う では太
養殖のワニ食いシャムのワニのショー では太←こちらを採用
ChatGPTに二つのうちどちらがいいか意見を求めたら、最初の方が、時系列が明確でわかりやすくていいという話だった。自分が、後の方がまだマシと考えて強引に説得すると、例によってすぐ折れてきた。ChatGPTは、こちらが弱く出ると、調子に乗ってハルシネーションを全面展開するが、断定調で決めつけると迎合してくる。
こちらの説得のポイントとしては、シャム(タイの古名)という場所の情報が’つけ加わっていること、ワニの繰り返しと、「シャムのショー」と頭韻を踏むことでリズムが良くなっていることを指摘した。なんのことはない、こちらもいい加減な論拠で強引に捲し立てただけなのだ。
しかし、肉を食った後に、その動物のショーを見るというのは、かなり、珍しい体験ではないか。イルカの肉を食べた後、イルカのショーを見るんなんてあり得ないだろう。
タイに生息する野生のワニの中には希少動物扱いされているものもあるが、人工繁殖や飼育は簡単で、養殖物のワニは食べてもいいのである。ある程度大きくなるまで、一般農家に委託飼育させるから、農家の良い副収入になっている。そのせいで、大きな洪水があるたびに、ワニが養殖場から逃げ出したことがニュースになるのである。
▪️水牛
水牛の糞ポタポタとついていく では太
水牛の尻草で打つ男児かな 万斛
一句目、水牛が歩きグソをしている様を詠んだ。田舎の舗装道路を電動自転車で走っていると、水牛のうんちがところどころに固まってスピードバンプ化していて、注意して回避しないと、大きくジャンプしてお尻が痛いし、故障の原因にもなる。乾季は特にそうだ。また、車が水牛に衝突する事故も結構あるようで、「水牛、牛」に注意の絵看板、標識が水牛が横断しそうな場所に立っている。

「ついていく」がちょっとわかりにくいかもしれないが、クソは当然、水牛についていくのである。
二句目は、小さな男の子が巨大な水牛に乗っている、墨絵のような光景をイメージして詠んだ。実際、子供が跨って乗っているのは見たことがなく、小学校高学年くらいの男の子が、草や木の枝で水牛の大きな尻をぴしゃぴしゃやりながら、群れについて歩いている。その現実の光景の方を詠んで見た。最初、墨絵の印象に引きづられて、「幼児かな」としたが、「流石に幼児は不自然かな」と思い直して「男児かな」に変えた。
▪️虚子歳時記の例句は以下、
象・バス行きて道きはまれば象に乗る 颯爽子
水牛・市中を水牛ありく夕立かな 圭児
鰐・王宮は鰐住む水に臨みけり 友次郎
と、こちらはみな、格調高い。物乞い象、ワニ肉のゲテモノ喰い、水牛の糞をネタにする自分とはレベルが違う。詠んでいて気持ちが良くなる句である。
特に、最後の句は、当時は珍しかった(戦前の句である)シャム旅行に興奮して、ガイドから聞いた話を、誇張した旅の自慢話のような味付けで句にしている、その感じが面白くて、自分は一番好きである。象の句はちょっと日記の文章風で、夏井先生ならダメ出しするかもしれないが、戦前の歌として読むと、これも、新しい体験した詠み手の興奮が垣間見えて悪くない。今なら、何のことはない観光ツアーの話になってしまうが。
真ん中の句は、市中を、「まちなか」と読ませるのか、「いちなか」とでも読ませるのか、わからない。まあ、「まちなか」でも「いちなか」でもそれぞれ情景は浮かぶ、気持ちの良い句ではある。熱暑の1日の夕方、スコールをシャワーのように浴びて、水牛はさも気持ちよさそうに歩いているのだろう。
<了>














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