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【再掲】アニメ「ダンダダン」で再評価の兆し?の昭和の名優・高倉健をディスる一連の投稿。

  • somsak7777
  • 1月13日
  • 読了時間: 20分

更新日:1月15日


※アニメ「ダンダダン」によって再び脚光を浴びている昭和の名優、高倉健。男主人公のオカリンの本名が高倉健で、ヒロインのモモちゃんがなぜか高倉健の大ファンなのである。この「不器用ですから」のヤクザ映画&いい人映画のヒーローをディスってみた。なぜ健さんの映画に違和感を感じるのか、読めばわかるでしょう。きっかけは、高倉健らしからぬ?黒澤映画へのディスり発言からでした。還暦以上の方限定(笑)




◇もし、映画「鉄道員(ぽっぽや)」が懐かしきドリフのコントだったら。


この映画、見ていて恥ずかしいような気分になり、見るのをやめそうになったが、昔懐かしドリフのコントだと思って楽しめばよかったのかもしれない。「もし、高倉健が田舎駅の駅長だったら」みたいにコメディの題材として、映画そっちのけで、あれこれ想像して楽しむのである。


何かミスをするたびに「不器用ですから」と言って遠い目をするとか、いきなり感情的になって「死んでもらいます」と叫び懐から算盤を出す・・・とかその類のギャグ。要は大時代な演技をする役者に小市民の役をやらせた時のギャップを笑うわけ。


最後は雪の中で死んでいるケンさんを部下が見つけて「やれやれ」という顔をした後、雪かきを続けるふりをして、高倉健駅長を再び埋めなおすのである。傍迷惑なのですな、小市民としては、重すぎて(笑) これはケンさんのせいではなく、企画と原作が悪いのだ。


こういうコントは幾らでもできるし、考えていると楽しい。例えば、「片岡千恵蔵がセヴンイレブンの店員だったら」(古いか!)「田中邦衛が話し方教室の先生だったら」とか、あるいは「西田敏行がぼったくりバーの呼び込みだったら」とか・・ミスキャストを想定して役者のキャラと状況との乖離で笑わせるわけだ。上にあげた例だと、最初の二つは単なるギャグだが、三つ目の西田敏行は、現実にこういうキャストをすることはあり得る。「ストーカー」でロビン・ウィリアムスが変質者を演じたように「善人キャラ→悪人キャラ」のギャップで悪役キャラに陰影と意外性を持たせるやり口である。


それまで役者が演じてきたイメージを、映画の登場人物の状況、性格設定に組み込んでしまうというやり方は、「善人・高倉健」の出発点だった「幸福の黄色いハンカチ」で山田洋次がやって大成功したものだ。この「鉄道員」も「黄色いハンカチ」の延長線上にある映画だろうが、「ちょっとやりすぎだろう・・・」というのが正直な感想。「一杯のかけそば」的な無理矢理感、安っぽさがあるのだ。「感動させますよ!」という意図が見えすぎて、わざとらしい感動の押し売りについていけない人間は、白けてしまうし、感動シーンが逆に滑稽に見えてしまう。思うに、感動させようという意図を露骨に見せないのが、日本映画のよき伝統ではなかったか。


高倉健と対照的なのが役所広司で、本当は小市民の役がハマる人なのに、偉い人の役ばかりやらされている。こちらはギャグになりにくいが、例えば、「役所広司が花札日本一の山本五十六だったら」とか「役所広司が長岡のゼレンスキー河井継之助だだったら」というのはどうだろう。やっぱりあんまり面白くないな、こりゃ。ゼレンスキーは河井継之助よりよっぽど現実的勝算があるわけだし。あ、その役、もうやってた!(笑)


ではでは


追記 ちょっと真面目に書くと、このキャッチコピーにも違和感がある。一人娘や最愛の妻を亡くすような状況なら、仕事は休んでいいの!サンドイッチマンではないが「ちょっと意味わかんない」滅私奉公である。そんなブラック労働、かっこいい事のように推奨しちゃダメでしょうに。第一、傍迷惑だろ、そんなことされたら。


ついでに、もう一つ、おそらく「鉄道員(ぽっぽや)」という題名には、高名なイタリア映画「鉄道員」へのオマージュが含まれているのだろうが、オリジナルの「鉄道員」は、労働者家庭の葛藤から悲劇的な和解までの日常を淡々と描いた名品で、滑稽かつ不自然な小市民英雄譚とは比較にならない。


ではでは 2


<了>




◇「幸福の黄色いハンカチ」(1978)映画感想文


※なぜかチャップリンの「殺人狂時代」のタネアカシあり。


「幸福の黄色いハンカチ」は好きな映画。意表をつくキャスティングによって圧倒的にコールド勝ちした映画と言っていいのではないか。


先ごろ、井上尚弥とノニト・ドネアとの再戦が「13ラウンドからの戦い」として話題になったが、我々は、映画の冒頭、主人公・島勇作が登場した時、既に12ラウンドを見終わっていたのだ。高倉健のヤクザ映画のヒーローとしての前半生が、網走の刑務所から出所した、この九州出身の主人公(そういえば高倉健も九州出身だ)の前半生と完璧に重なりあったからである。


映画の演出がキャスティングから始まるとしたら、これほど効果的な演出はないだろう。この後、観客は、映画の主人公と俳優・高倉健の人生の再チャレンジを固唾を呑んで見守るだけなのである。


キャスティングの意外性による演出効果のもっとも高名な例は、チャップリンの「殺人狂時代」だろう。ヒューマニズムの旗手、人間愛に溢れた喜劇王とされていたチャップリンが、冷酷卑劣な連続殺人犯を演じて、映画のラストでは、教誨師の悔い改めの誘いさえキッパリと拒否して断頭台に赴くのだから、見るものはおったまげた。そして、観客は、ブラックユーモア、という言葉の枠の中に収まりきれないチャップリンの冷え冷えとした本音を感じ取ってゾッとしたのである。(映画は抱腹絶倒の喜劇である。念のため)


「黄色いハンカチ」のキャスティングにそこまでの鋭さはないが、この効果は、勿論、山田洋次監督の狙いうったものであり、観客は、映画の主人公と共に、役者として再出発を遂げた高倉健を、暖かく応援し続けることになる。この映画の後、健さんが、国民的大スターとなった所以だろう。


高倉健は、あまり好きな俳優ではないが、この映画と「山口組三代目」、最晩年の「単騎、千里を走る」は好きである。「居酒屋兆治」もまあまあ好きだ。若い頃のガラッパチ風の高倉健は面白いと思うが、後年の、半ば神格化された、ナルシスっぽい健さんはあまり好きではない。だいたい、本当に不器用な人は、自分で「不器用ですから」などと言わないものだろう。セリフとして言わされているとはいえ、なんか恥ずかしい。


ではでは




◇意外と男らしくない高倉健の一面


「影武者」の絵コンテ
「影武者」の絵コンテ

以下時事通信のインタビューから


 (高倉健は) 出演作を決める大きな基準は「監督への信頼」と語る。続けて、黒澤明監督との間であったエピソードを披露してくれた。


 降旗監督の「居酒屋兆治」の準備が進んでいたとき、黒澤さんの「乱」に(鉄修理=くろがね・しゅり=役で)出演できるという話があった。でも、僕が「乱」に出ちゃうと「居酒屋兆治」がいつ撮影できるか分からなくなる…。とても僕が悪くて、計算高いやつになるという風に追い込まれて、僕は黒澤さんのところへ謝りに行きました。


 あの時、黒澤さんは僕の家に4回いらして、「困ったよ、高倉君。僕の中で鉄(くろがね)の役がこんなに膨らんでいるんですよ。僕が降旗君のところへ謝りに行きます」とまで言ってくれた。でも、僕は「いや、それをされたら降旗さんが困ると思いますから。二つをてんびんに掛けたら、誰が考えたって世界の黒澤作品を選ぶのが当然でしょうが、僕にはできない。本当に申し訳ない」と謝った。黒澤さんには「あなたは難しい」って言われましたね。


 その後、「乱」のロケ地を偶然通ったことがあって、「畜生、やっていればな」と思いましたよ。


 ただ、黒澤監督の晩年の作品には、良いものがないと思うんですよね。僕は、監督が(作品の常連だった)三船敏郎さんと別れたのが大きい気がする。志村喬さんもそうだったけれど、三船さんは(黒澤作品の)エンジンの大きな出力だったのでしょう。二人が抜けたことで、その出力がどーんと落ちた。怖いですよね。映画は絶対に一人ではできないんですよ。


 ・・・引用終わり


高倉健が言われているような男の中の男なら、墓場まで持っていく類の話だろう。鉄修理を演じた井川比佐志や主演の仲代達矢に悪いではないか。ちなみに、鉄修理の役は、モタモタした高倉健の演技よりも、スピード感のある井川の方がよかったと思う。映画ができてしまえば黒澤が見た高倉健のイメージは既に跡形もなく、高倉健はそこに嫉妬していたのではないか?


全体的に黒澤信者である自分が鼻白らむ内容だが、次のような部分はちょっと面白い。


「でも、僕が「乱」に出ちゃうと「居酒屋兆治」がいつ撮影できるか分からなくなる…。とても僕が悪くて、計算高いやつになるという風に追い込まれて....」


要は、人目を気にして、大役を断ってしまった事への後悔を、率直に語っているのですね。カッコマン、高倉健が、自分を正直に語った稀有のインタビューとも言えるのではないか。


だが、この発言などは酷い。


「ただ、黒澤監督の晩年の作品には、良いものがないと思うんですよね。僕は、監督が(作品の常連だった)三船敏郎さんと別れたのが大きい気がする。」


三船が出ない黒澤作品としては「どですかでん」「デルスウザーラ」「影武者」「乱」「夢」「8月の狂詩曲」「まあだだよ」があるけれども、どれも一定の水準を保った作品だと思う。特に「どですかでん」などは、黒澤現代劇(と言っても山本周五郎原作だが)の大傑作であり、自分は「生きる」(三船は出てないが志村喬主演)などよりも好きだ。


最晩年の「8月の狂詩曲」「まあだだよ」でさえ、薄っぺらなさむいぼ(悪い意味で)庶民英雄譚「鉄道員(ぽっぽや)」などよりなるかに上等な作品なのだ。。


松方弘樹が亡くなる前に、意外と男らしくない高倉健の一面を語っているが、もうソロソロ、高倉健の実像を描いた伝記がでてもいいのではないか。タブーにするほどの商品価値はもう高倉健にはないし、故人となったスターへの関心はまだ少なからず残っている。丁度いい頃合だと思いますが・・・健さんは、それに値するスターだったと思いますよ。


・・・とちょっと前に書いたが、新たに高倉健の伝記を出すだけの関心は、世間にもう無いのかもしれない。


ではでは




◇「単騎、千里を走る」(2005年)


高倉健がいい人役をやるようになってからは、あんまり好きではない。ヤクザ映画でも「いいモン」でしたが、「いい人」役をやるようになってミョーな健さん神格化が始まるのですよ。でも「幸福の黄色いハンカチ」とこの映画は好きですね。あと、「八甲田山」、外国映画では「ブラックレイン」。


この映画、日中合作のロードムービーだが、中国人ガイドの日本語訳が必ずつくので、字幕なしでも全てが理解できる。ガイドがその場に居ない時は、携帯を通じて話をしてもらったり、こういうところを丁寧に作っているから、観客は健さんと一緒に中国を旅している気分になれるのですな。別に、監督が張何某だからといって、マジックがあるわけではない。


また、中国内陸部の雄大なロケーションが素晴らしい。ああいう大自然の中でなら、「鉄道員」では笑ってしまった健さんの過剰に重い演技も、背景に釣り合ってくるのですね。中国側の共演者にも助けられている。特に、服役中の京劇役者を演じた俳優が素晴らしい。見た方でないとわからないでしょうが、この人の眼!「まなざし」という言葉を久しぶりに思い出した。エンドロールの名と役名が同じだから、おそらく本物の舞台俳優、あるいは舞踏家でしょう。名前は李加民。


全般的に、素人を起用したという中国側の演技陣に高倉健は喰われてました。健さんの場合、例えば、泣く時に、どこで鼻をすすり、横を向いて、拳で口を覆うか、だいたい読めるのですね。あえて言えば、ルーティーンの演技しかできない大根役者。ところが、この映画で初めて、高倉健は、ミモヨモナイという風の、素の泣き顔を見せる。しかもそれが、「仮面を被った人生の生きづらさと、そこからの解放」という映画の主題を見事に表現しているという・・・これは、名監督、張芸謀の手腕。感服しました。


音楽もいいですね。使われている楽器は胡弓だろう。作曲は、Guo Wenjing、郭文景という人。ここにメモしておきます。


では


<感想文2>


下はタイのテレビで放送された時の予告編




タイのテレビで放送された時に書いた感想文が続きます。いつものことですが、「批評」とかではなく「感想文」です。


◇単騎、千里を走る (2005)


※かなり致命的なタネアカシあり。ご注意を。


映像はタイの衛星テレビ局の番組宣伝から。高倉健のタの字も出てこず、中国映画の名匠、張芸謀監督作品とだけ紹介している。これが現在のアジアでの率直な評価だろうと思う。高倉健は、ここでは、日本人の老俳優としてしか認識されていない。


映画は「病床にある息子との関係を修復するために、息子が研究していた中国の仮面劇を探して中国を旅する父親(高倉健)の話し」・・・である


と、こう書いても、ストンと胸に落ちる人は少ないだろうが、映画の筋の方に無理があるのだから仕方がない。とにかく、息子が成しえなかった中国仮面劇の撮影を、息子に代わって仕遂げるために、中国を旅する父親のロードムービーである。「息子と仲直りするためになんでそんなまどろこしい事を?」という当然の疑問はとりあえず呑み込んで見ていると、悪くない映画だと感じた。


旅の終わり近く、日本からの電話で息子の死を知り、崖上に立って涙を流す高倉健の顔に驚いた。この人の、このように自然な表情を今まで見たことがなかった。いつものように、カッコをつけて鼻を啜るルーティンをするのかと思っていたのだ。息子の死を悲しむ、素のままの父親の姿がそこにあるように感じた。


この老俳優に、長年被っていた仮面を脱がせた張監督の手腕はすごいと思う。「仮面を被った人生の生きづらさとそこからの解放」という映画に通底するモチーフを、長年囚われてきた自己イメージから解放された役者の素の顔を通じて見事に表現したのである。


中国内陸部の雄大なロケーションが素晴らしいし、旅の厄介さを丹念に描いた演出が手堅く、見るものは健さんと一緒に旅をしているような気分になれる。健さんが旅の最後に獄中で出会う仮面劇の踊り手は、おそらく現実のプロの舞踏家だろう(役名と実名が同じである)。この人の澄み切った目がいい。まなざし、という言葉を久しぶりに思い出した。この人以外も、多くの役に素人を起用したという中国側のキャストが抜群に良いと思った。高倉健に、ルーティーンの、お約束の演技をさせなかったのは、彼らの力なのかもしれない。


映画の採点 8/10


ではでは




◇「遥かなる山の呼び声」(1980)〜映画感想文


※映画のネタを割っています。ご注意を。


山田洋次の映画だからそれなりに面白いが、「幸福の黄色いハンカチ」の二番煎じの感は否めない。全体に、「黄色いハンカチ」よりも笑いが少なく、話しが平板にシリアスである。


この映画でも、高倉健は、「一応」、ヤクザではない。が、ヤクザ映画をやっている時も、健さんはいつも「いいもん」ではあったわけで、「やむに止まれぬ事情から人を殺める」という意味では、主人公の心情はヤクザ映画のそれとほとんど変わらない。100パー自らの愚かさから人を殺してしまい、自分の過ちを真剣に悔やんでいる「幸福の黄色いハンカチ」の主人公からは、相当、退歩した、任侠映画的キャラクターである


一種、形を変えた任侠映画とでも言うか、※マゾナルヒロイズム(笑)の映画、とでも言おうか、任侠映画のお約束を北海道の大自然に持ってきた、ホームドラマっぽい味付けの、いわゆる一つの「健さんの映画」。


※マゾナルヒロイズム マゾヒズム、ナルシズム、ヒロイズム、三位一体の映画という意味。今作った私の造語。高倉健や鶴田浩二が主演する東映任侠映画や、この映画などがそうである。


一般的には、最後のシーンがサプライズ的な感動を呼ぶのだろうが、自分などには、高倉健がどこで横を向き、どこで鼻をすすり、どこで一礼するかまで読めてしまう。だから、この「感動のラスト」より、武田鉄矢が少しだけ出てくる、冒頭近くのシーンの方が印象に残った。


結婚したばかりの武田は新妻を連れて、北海道に開拓農民として暮らす従姉(倍賞千恵子)の元を訪れる。倍賞は結婚相手と北海道に移住して慣れない農業を始めたが、しばらくして夫に死なれ、女手一つで農場を切り盛りしながら男の子を育てていた。挨拶して、しばらく世間話しをした後(一泊したかも)、若夫婦は倍賞の家を後にするのだが、その車中、ハンドルを握る武田が急に泣き出すのである。そして、驚いている新妻に、「おれ、あの人を見ると、なんか、いつも可哀想になっちゃうんだよな」と言う。


このシーンに感動した。武田が唐突に泣くことで、倍賞千恵子の異郷の地で暮らす孤独、彼女の人生の薄幸さが、微かな驚きと共にグッと観客の近くに迫ってくる。また、おそらく倍賞千恵子は、武田鉄矢の初恋の人だったんだろうな・・・だとか、あるいは、夫の意外な一面を見ることで若い二人の絆は深まるだろう・・・、などなど、いろいろ考えさせられてしまう。こう言うところ、山田洋次は本当にうまいと思う。


また、武田鉄矢みたいな典型的三枚目が、いきなり泣き出して、ああいうマジなセリフを言うから、なおさら良いのである。自分は、この武田鉄也を見て、短躯短足をいつも自分で笑い飛ばしていた親戚のお兄ちゃんの事を思い出していた。


映画の採点は、6/10


ではでは




◇「あうん」(1989)映画感想文



子供の頃、読書感想文というのが嫌いで、どうしても書けなかったのだが、最近は暇があれば映画感想文を書いている。先生に提出しなくてもいい、というのが、書いていて楽しめる理由だろう。


映画は高倉健、坂東英二、藤純子主演。テレビ版は杉浦直樹、フランキー堺、吉村実子主演。この役を演じて、高倉健が杉浦直樹に勝てるはずもなく、坂東英二は論外、全然、テレビ版の方が良かった。フランキー堺の鬼瓦みたいな顔が、「あ・うん」の狛犬を連想させるユーモアになっていたのに、坂東英二ではヒョットコになってしまうではないか。


もうひとつ、藤純子は普通に美人すぎて、門倉(高倉健)が惚れるのも当たり前に思われるので、「友人の奥さんだから気になって、なんだか惚れているような気分になっている」という、この妙な三角関係のニュアンスが伝わらない。要するに、門倉の恋情は友情とセットになっているので、永久に一線を超える事がなく、堂々巡りに終わるのだ。


こういう経験は自分にもあるからよく分かる。この関係において、女性は特別に美人である必要はなく、不美人でもいけないが、何か常に一生懸命な印象を与える吉村実子のような女性が相応しいのだと思う。


あれ!、「いつも一生懸命な印象を与える女性」と言えば、うちのカミさんがそうだ。あれ!吉村実子はうちのカミさんに似てる!あ、それでテレビ版の方が好きなのか!(笑) 


採点 映画版 6/10 テレビ版 10/10


失礼! ではでは




◇高倉健の達意の日本人英語がかっこいい



最初に文句を言っておくと、この映画の題名に抵抗がある。今ならポリコレ界隈で「文化盗用」と批判されるだろう。「ブラックレイン」=「黒い雨」という言葉は、今や、日本国民の共通体験として神話化されたイメージ、ある種の文化遺産であるわけで、ハリウッド映画のエスニックな味付けために矮小化して使ってほしくないのだ。今から、30年以上前の映画なのだから、今更言っても仕方がないが・・・。


さて、本題。


全体的には言うと、「ブラックレイン」の高倉健の演技は、「ちょっとやりすぎ」「くさい」と自分は思う。特に空港でのラストシーンは、「夜の大捜査線」のエンディング、シドニー・ボワチエを見送るロッド•スタイガーの自然な演技と、どうしても比べてしまう。高倉健のは、なんか恥ずかしくなるような、オーバーアクションなのだ。健さんは、この映画でコメディリリーフ的な役所だから、監督からああいう誇張された演技を求められたのかもしれない。(批評ではなく個人の「感想」「好み」です。念のため)


でも、マイケル・ダグラスとうどんを啜りながらビールを飲む、このシーンは好きですね。


一つは健さんの英語。相手に伝わることを念じながら、ゆっくりと達意の英語を喋る。英語を晩学する人の話し方として、ひとつの模範となりうるのではないか。発音は日本人英語だが、文法的には完璧な英語を話している。また、役柄から言っても、これ以上英語が上手いと、日本のデカが喋る英語としては不自然だし、ちょっと「敵に魂を売った」感じにもなるのですね。


やたらに you know とか、like とか、ネイティブ感を出すための単語を挟むこともない。One OK Rock のタカさんなどは、自分は大ファンだし、英語もすごく上手いけども、早口で、Like という単語を多用するのが、進駐軍の日本人通訳みたいで(進駐軍の通訳に会ったことないが・・・笑)、なんか、ちょっと恥ずかしい。


このシーン、演出もいい。マイケル・ダグラスが売人から金を受け取ったことを認めると、高倉健が「君が金を受け取れば、(相棒で殉職した)チャーリーさんを汚し、君自身を汚し、私を汚すことになる」と直言する。マイケル・ダグラスが黙り込むと、健さんがビールを注いでやり、ダグラスが「ありがとう」と呟く。


この Thanks はビールに対してではなく、高倉健が自分を友人として認め、直言してくれたことに対する感謝の言葉なのだが、高倉健にビールを注がせることで、このひねくれ者の口から、Thanks という言葉が自然に出てくるわけですね。ビールのアクションがなく、マイケル・ダグラスがしばらく黙り込んで「ありがとう」とつぶやいた場合を想像してみてほしい。クサいし、この刑事のキャラから言って不自然になってしまう。日米の、少しクセのあるベテラン俳優の個性がかみ合った名シーンでした。


蛇足ですが、もう一人、中年すぎて英語を学ぶ日本人が模範にすべきアジア人は、マハティール元マレーシア首相だと思う。この人も、ゆっくりと、マレー語訛りの発音など気にせずに、達意の、しかし文法的に完璧な英語を話す。こういう英語の方が、中途半端に流暢な英語よりも、ネイティブから尊敬を受けるのではないか。一種の英語国民でありながら、英語をコミュニケーションの手段と割り切っている感じが、なんだか格好いいのですね。


高倉健もマハティールも、我々、平凡人には偉物すぎるアジアンヒーローだが、憧れて、模範にする分には構わないでしょう。


ではでは




◇「居酒屋村兆治」(1983)感想文



意味なくやたらに重い居酒屋の主人と、濡れ雑巾みたいにベタベタ気持ち悪いその元恋人。この人たちには「勘弁してくれよ」と思いながら見た。映画を見て勘違いをし、客商売の初心を忘れて店を傾けた居酒屋の主人もいるのではないか。それほど健さんの影響力は大きいのである。(笑)


という事で、主役陣の演技は私はダメなのだが(とりわけ大原麗子。この人のどこがいいのか分からない)、脇役陣が良かった。特に小松政夫。


小松演じるタクシーの運転手は、長年連れ添った奥さんに、扇風機をつけっぱなしで寝たことが原因で頓死される。毎晩、足をからめて寝ていた人が突然いなくなったので、代わりに金属バットを抱いて寝ているのだが、それが「冷たくて、冷たくて」と酒を飲んで泣くのである。(笑)


小松政夫は昨年亡くなったが、最後の喜劇人と言って良い人ではなかったか。この人がNHKの時代劇で、名作「七人の侍」の菊千代の、あの独特の奇声を真似しているのを見て、「やってる、やってる」と嬉しかった。「はは、ひひ、ほほほほ、へへへ」みたいな、手塚漫画の登場人物がやるあの笑い方である。こういう、知っている人はニンマリする類のギャグをやって、知らない人にも「なんだか面白い」と思わせるところが素晴らしい。だから最後の喜劇人と・・あ、伊東四郎がまだ生きていた!


この小松演じるタクシーの運転手に暴言を吐いて、健さんに殴られるのが伊丹十三。「いるなあ、こういうパワハラ体質の中小企業の親父」と思わせる、禍々しい鬱陶しさだった。他にも、そのまんまで学校の校長先生の大滝秀治とか、連続殺人犯風のカラオケ狂い山谷初男とか、脇役陣が素晴らしく主役二人が浮いていたのである。


大原麗子の役を自分の好きな真野響子がやり、健さんの役を、軽い演技もできる人、例えば中村吉右衛門あたりがやれば、もっといい映画になったのではないか。(完全に自分の好みです、笑) 山口瞳は高倉健を念頭にこの小説を書いたと思うし、健さんでなければヒットしなかったとは思うが・・・


採点 7/10


ちなみに、タイトルの由来となった村田兆治は、寡黙な職人、謙虚ないい人、みたいなイメージだったが、実像は、唯我独尊、オレがオレがの、我儘横暴、超ムチャクチャな人だったようだ。最近、プロ野球選手がYouTubeで暴露するので、そういう事も分かってきた。もちろん彼らは、古き良き時代の野球選手の武勇伝として、少し誇張して好意的に語っているのだが、「居酒屋兆治」の主人公と対極的な人物である事は間違いない。当時はSNSがないので、そういう事が分からなかったのである。


ではでは


<了>

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