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タイで一番有名な幽霊の話

  • Plaadipbkk
  • 2017年8月7日
  • 読了時間: 6分

タイで一番有名な幽霊メーナーク。これまで何度となくドラマ化、映画化された女のオバケである。私の住んでいる運河沿いにマハーブット寺というお寺があり、境内の祠にこの幽霊が祀られている。

メーとはタイ語で母親のこと。ナークが名前であが、一種の信仰の対象として敬称的に「母なるナーク」と呼ばれている。恋愛成就の霊力を持つピー(タイ語でオバケのこと)、あるいは宝くじをあてる怨霊としても人気がある。

幽霊話は雨月物語の「浅茅が宿」(溝口健司の「雨月物語」のもとになった)と少し似ていて、夫が王宮の警護に行っている間に難産の末死んだ妻が、未練を残して夫にまとわりつぐが、偉い坊さんに説得されて往生する・・という話である。

この幽霊が実在したか否か?・・というと妙な問いになるが、幽霊話の種になるような話が実際にあったことは事実らしい。表紙カバ-を掲載したアネーク・ナーウィックムーン氏の名著「メーナーク伝説を紐解く」によれば、ラマ3世から5世の治世を生きた古老が「サイヤムプラぺート」いう雑誌で読者の質問に答え、以下のように述べている。

「ラマ3世王の統治の頃、パカノン運河で女性の幽霊が出るという噂があった。女は土地の分限者の妻、アムデンのナークで、難産のためお腹の子供とともに死んだのである。夫のチュムがマハーブッド寺へ遺体を運ぼうとすると、船をゆすって邪魔をする女性の幽霊が現われた」

「その後も、幽霊はしばしば現われて村人を恐懼させたが、その顛末は、父親が再婚して財産の分け前が少なくなることを恐れた息子が、幽霊に扮していたのだった。悪事を告白した後、息子はポー寺で首を括って死んだ」

上のような話を、マハーブット寺の当時の住職から聞いたというのである。事件があったのはラマ3世の治世だから19世紀の中頃、上の雑誌が発行されたのは、それから半世紀ほどたった1899年である。

そのころ既に、メーナークが著名な幽霊であったことは事実らしく、王宮の門に通る人に、4つの名前を尋ねる調査をしたところメーナークを知っている人が一番多かったというエピソードを同書は紹介している。

しばらくして、当時、英国に滞在していたラマ6世王(同時は皇太子)が、「第二のパカノンのメーナーク」と題した小文を英語とタイ語で記している。サイヤムプラぺートの記事から6年後である。

同書の筆者は、陛下が「プラぺート誌」の記事を読んでいたと想像している。「第2のメーナーク」では、タイ国で警察顧問を長年務めていた英国人が、殿下(当時)と会食のおりに話した四方山話のひとつ・・・という設定で、だいたい前記と同じ内容のストーリーが語られているからである。

夫の名前がパンチョートと変わり、警察が捜査に入り幽霊の正体を暴く体裁になってはいるが、「息子が父親の再婚を邪魔するために母親の幽霊に化けた」という話の骨格は変わらない。(当時のから見た)現代に蘇ったメーナークという趣向だが、陛下がこれを実話として書かれたのか、小説をものされたのか、同書の記述からはつまびらかとしない。

そして「決定版」がその7年後に登場する。ラマ4世の御子息の一人で「千夜一夜物語」の翻訳でも有名なワラワナーコーン親王が、マークパヤーの変名で、メーナークのゴシップを歌劇に仕立てて発表するのである。

歌劇では、夫の名はマーク(35歳)夫が宮廷警備の任務中に、妻ナーク(32歳)は難産の末、子供とともに亡くなる。幽霊になった妻は、任務中の夫を尋ね一夜をともにするが翌朝にはどこかに消えてしまう。村に戻った夫は、両親にナークが死んだと知らされるが信じようとしない。

家に戻ったマークは、ナークにやさしく迎えられ、新しく生まれた男の子と一緒に暮らし始める。親友のトイや、霊媒師クルアテが尋ね来ても、ナークは首を絞めたり、叩いたりして、追い払ってしまう。

しかし、ライムの汁を絞るとナークの手の骨が見えたり、手がにゅっと伸びて香菜を摘んだり(これはタイのオバケ話では「ろくろ首の首が伸びる」のと同じくらい有名なシーン)、男の子が犬の子をむしゃむしゃ食べたり、いろいろおかしな事が起こるので、マークも妻が幽霊であることに気付く。

マークは意を決して、霊媒師クルアテに仲介を頼み、後に高僧となる青年僧プアックが、念仏の力でナークをツボの中に閉じ込める。

この歌劇は王宮内の劇場で実際に上演され、メーナークと青年僧プアックの対決シーンでは、ツボに閉じ込められたはずのナークが、舞台上部の看板近くから現われ、観客が歓声が上げる・・・といった仕掛けがある、なかなか本格的なものだったたらしい(ツボの下に穴があいていてナークを演じる役者は密かに穴から抜け出して、舞台上部への階段を上るのである)

「メーナーク伝説を紐解く」の著者は、この後も、フィクションとしてのメーナークの足跡を丹念に辿り続けるが、以降出てくる小説、舞台劇、テレビドラマ、映画は、基本的にこの歌劇で確立された内容をもとにしていると言ってもよいだろう。これ以降は、メーナークが恋い慕う夫の名も一貫して「マーク」である。

余談になるが、この歌劇の中で、死体処理人が「宝くじを当てるために」ナークの額から骨をくりぬいてお守りにしようとし、ナークに首を絞めらる・・というシーンがある。(メーナークがなぜ宝くじの神様なのか、これを読んで長年の疑問が氷解した)この歌劇が書かれたのは、今から、100年ほどまえのことである。そんなに昔から宝くじがタイにあったのだろうか?調べてみると、これがあったのですな。

タイ語の宝くじ「フゥアイ」は、中国語のフゥアイフアイ(花会)から来ている。34種類の絵札のうち一枚を当てるゲームで当たれば親から30倍の配当が得られる。中国式では著名な歴史上の人物の肖像が描かれたが、タイで普及するにあたって、タイ式アルファベット(36字)が描かれるようになった。

フゥアイは財政再建のためラマ3世の時代(19世紀前半)に公認の賭博となり、賭場の管理者には中国系が選ばれ、クンバーンという官位も与えられた。人気が過熱したためラマ5世の時代に禁止されたが、「まず盆ござ形式を廃止し、次にフゥアイ形式のものを禁止した」とWikiにあるから、賭場を開いてやるものと、宝くじ式に不特定多数のものに札を当てさせる形式と2つあったものと思われる。

ちなみに、現在のように宝くじが政府系の公社によって法律に則って運営され始めたのは、今から78年前の1939年であるが、同時ですら当たり表記には数字ではなくタイ語のアルファベットが使われていたという。

話が相当脱線したが、メーナークの逸話は日本のお岩さんを連想させますね。当時の噂話、ゴシップが歌舞伎や落語の演目にって人気を博し、フィクションなのに祟りを恐れた人たちが四谷にお岩稲荷までたててしまう。タイでもほぼ同じことが起こったわけだが、日本での鶴屋南北や三遊亭円朝の役割を、タイでは当時の知識階級の先端的存在であった王室の方々が果たしたということだろう。あるいはそこには、迷信から離れて仏教の教えに導く教導的な意図もあったかもしれない。

東海道四谷怪談を演目に挙げた日本の演劇人がお岩稲荷を訪れるように、メーナークをドラマや映画にするとき、タイ人のスタッフ、俳優陣は必ず、パカノンのメーナーク廟を訪れ、上演の許しを請い、成功を祈願する。違っているのは、おそらく彼らの多くが、宝くじの当たり番号も、ついでメーナークに聞いていくことだろう。

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